わが家へようこそ

 買い物を終え,駐輪場に停めてあった自転車に乗り,私は家に向かった。ゆっくり走りながら,あの三毛の子ねこは今どこにいるのだろうか,と考えた。季節はやがて梅雨を迎える頃で,まだそれほどねこにとって過ごしにくい時期ではなかった。昼間には汗ばむことも多くなった五月末のことだ。それでも夜になると少し涼しい日もあった。もっとも,ねこは毛皮を着ているので,それほど堪えないだろう。彼らは冬よりも夏の方が苦手だと思う。人間と違い汗をかけない。その分体温調節が難しいだろう。夏に向けて抜け毛はするのだが,それでもかなりの体毛で体は覆われる。スーパーから家までの帰り道,結婚して新居に住み始めた頃はほとんど気にもとめなかったのだが,この街にもねこはあちこちに見かける。塀の上から見下ろしているねこ。家と家の間を素早く通り抜けるねこ。明らかに野良ねこと分かるねこ。明らかに飼いねこと分かるねこ。そんな中の一匹に,あの三毛猫が居たのだ。彼女は今どこにいるのだろう。

 うちの庭にいた。家に帰り,買い物に行く前に取り込んだ洗濯物以外に,乾きにくいスウェットやジーンズを取り込もうと物干しに行った。すると,またもや百日紅の木の下にあの三毛猫が例によって前足の関節を抱え込むように,ちょこんとそこに座っていたのだ。再び私が「チチチ」と呼んでみると,今度は彼女の方から寄ってきた。そして,私の足下に来て体をすり寄せはじめた。その仕草を見て私は確信した。この子はどこかよその家で飼われているか,あるいはかつて飼われていたが捨てられたのだろう,と。普通,人間に飼われたことのないねこは,警戒心が強いので自ら人間に近づくことはほとんどない。もし,今も飼い主がいるとしたら,やがてそこに戻るだろう。そう思い,私はあっさりと,彼女を我が家に迎え入れたのだ。

 私に抱かれたまま,三毛の子ねこは初めてわが家に入った。子ねこにさわった瞬間,懐かしいねこの柔らかな毛の感触を思い出した。「ああ,ねこの感触だ」。私は抱いていた彼女を,静かにキッチンの床に下ろしてみた。しばらく彼女がどんな行動を取るのか眺めていた。はじめは床の匂いを警察犬が犯人の匂いをしっかり追うように,左に右にクンクンと鼻頭を動かして嗅いでいた。やがてそれに飽きたかと思うと,一気にテーブルの下に駆け込んでいった。何かを発見したのだ。カラカラカラという音とともに,洗濯ばさみが出てきて,すぐそのあとを彼女が追って出てきた。彼女は左利きなのだろうか,さかんに左の前足で空色の洗濯ばさみと格闘していた。時に自分で動かし,跳びはね,噛みついていた。まだ子ねこなんだ。その様子を見て私は呟いた。そして,食器棚から小皿を出して牛乳を注いで彼女の前に差し出してみた。先ほどではないが,やや用心深く匂いを嗅いでからぺろぺろと,小さな舌でなめはじめた。十一回ほどなめてからいったん休み,再び八回ほど小皿をなめた。何か食べるものはないかと考えたが,あいにくキャットフードなどない。もともとねこを飼う予定がなかったのだから。今日,スーパーのペットフード売り場の前に行ったとき,ひと缶でも買っておけばよかったと後悔した。仕方ないので,パックの鰹節を別の小皿に載せて与えてみた。「ねこに鰹節」と言うだけあって,彼女は鰹節にしばらく熱心だった。でも,こんなものでお腹の足しになるのかしら,と思いつつも意外と彼女は満足げだった。夜もだいぶ更けてきた頃,ダンナが帰ってきた。私たちが結婚してから,二週間と三日目の晩のことだった。