無彩色の世界

 月明かりの無い夜にクレープが出掛けてからしばらくしてダンナは蟻の巣穴の観察を終え家に入りそのまま書斎へ直行した。蟻の行動を見ていて何かを思い出したかのようだった。「女王蟻の生態が…」と呟いていた。女王蟻?女王蜂はよく聞くけど,蟻にも女王が居るのかしら?私の蟻に関する知識はそんなものしか無かった。ダンナが居なくなった庭を見ると,暗闇の中には何の色彩も無いように見えた。そこにはすでに生命の営みはなく,無機物しか存在していないように感じた。当然樹木もあれば虫も居る。蟻だって地面の中でうごめいているはずだ。もしかしたらどこかのねこが息を潜めて隠れているかもしれない。でもその時の私には,そこに生命が存在していることが想像できなかったのだ。庭をじっと見つめていると無彩色の世界に引きずり込まれそうになり急に恐くなった。子どもが森を見て怖がるように恐怖心が私の体を包み込んだのだ。その瞬間,クレープが二度と戻ってこないのではないかともうひとつの私が自らに語りかけていた。もうそれ以上その場に居ることが私には耐えられなくなった。

 私は気持ちが昂ぶらないように,なるべく平常心を保ちながら静かに立ち上がった。そして準備してあった夕食を静かにテーブルに運んだ。そうでもしないと気が紛らわせそうにもなかった。そして一人で居るのが恐かった。せめてダンナが同じ食卓にいてくれたら,それだけでも平静は取り戻せそうだった。書斎に行ったダンナに食事の準備が出来たことを伝えにいった。ダンナは分厚い図鑑のような蟻の本を広げ,顔を埋めるように見入っていた。最初は私の声にまったく反応しなかった。もう一度ご飯が出来たことを言ったがやはり無反応だった。夢中になるとまったく外の声が聞こえなくなる。今に始まったことではない。ドアを叩いて少し強めに声を発した。実際には発した私自身が自分の声に驚いてしまった。何に怯えてるの?ようやく図鑑から目を離したダンナはゆるりと立ち上がり食卓へと向かった。

 食事をしていても私はクレープのことが気になっていた。いつもなら外に出たことなど気にもせずにいたのに。忘れた頃に帰ってくるのだ。けれども今日はクレープが出て行ったあとのいつもとは違った空間に戸惑いを感じていたのだ。いや,感じ取ってしまったのだ。まるでクレープが通り抜けていったあとには,別の次元の世界が形成されたように感じた。それは私の作り上げた架空の世界かもしれない。けれども本当に存在する空間かもしれないのだ。私は箸を持ったまま目の前の自分で作った食事にまったく手をつけなかった。怪訝に思ったダンナが「食欲ないのか?」と聞いてきた。 「そんなことないわ。ちょっと考え事してたの」と誤魔化した。

 クレープは今頃,あの芝生の庭の家に向かったのだろうか。“彼女”は今度はどんな手紙をクレープに託すだろうか。でもそれはあくまでもクレープが帰ってくることが前提となる。深い闇に消えていったクレープは私と同じ世界に存在してくれているのだろうか。それともクレープにしか通り抜けることが出来ない別の次元の世界で今は過ごしているのだろうか。テーブルの上の私の皿からは一向に料理が減る気配がなかった。