木の枠の中の絵

取り込まれる!一瞬恐怖を感じたまま,それでもクレープの瞳を覗き込むことをやめられなかった。怖いもの見たさとか,興味本位とかで目が離せないわけではない。クレープの瞳がひとつの強い重力を持った天体のように私の瞳を得体の知れない引力で引きつけている。地球や火星,木星がそれらの星々の中心にある太陽に引きつけられるのと同じように,私の瞳が,いいや私自身が大きな力に引きずられている。見ちゃダメ!自分に言い聞かせた。けれどもその声は発することができず,冷ややかに部屋の空間を巡っているだけだった。ふと思い出した。はなちゃんの家の壁の内側で見た半月は太陽を溶かし入れていた。地球よりも小さい,しかも半分の月がはるかに大きい太陽を溶かし込もうとした。太陽を溶かし込んでしまう半月はあのあとどうなったのだろう。まともな考察ができるのなら,月はドロドロに溶け,半分の円の下からこぼれ落ちていくだろう。そして月は半分のまま永遠に語られるようになるのだろう。

クレープの瞳の中は,漆黒の闇のように思っていた。けれどもずっと覗き込んでいると何かそこに存在するものが見えてきた。暗闇に閉じ込められた人が,時間とともに目が慣れて真っ暗だと思っていたその空間に,少しずつ輪郭が見えてくるように。私は深呼吸したあと,クレープの瞳の中にあるものをひとつずつ確認していった。小さな部屋には机があり,壁には絵が掛けられてある。床にはカーペットが敷かれ窓にはベージュのカーテンが外の光を遮っていた。間違いない。クレープの瞳の中にははなちゃんの部屋が収められていた。ついさっきまでいたあの場所だ。けれどもそこにはなちゃんの姿も私の姿も見ることはできなかった。ブルーキャットもクレープも居ない。映画のセットのようにその部屋はクレープの瞳に収められていた。「まったく同じ……」そう声に出したか出していないか,自分でも分からないくらい小さな声で呟いた。そしてできる限りの力を振り絞ってクレープに手を伸ばし,彼女の小さな頭を撫でた。そうすればクレープは目を閉じ,この非現実的な世界から抜け出せると思った。けれども私の手はクレープに届かなかった。すぐそこにあるはずのクレープに届かないのだ。これはもう夢の中に居るのだ。ウソでもいいからと自分に言い聞かせた。夢か現実か分からないとき,自分の頬をつねるというマンガチックなことをしてみると痛さを感じた。夢じゃない?でも自分の頬に届く手が,目の前のクレープに届かないなんておかしい。早くいつもの家の中の空間を取り戻さなければ。私は精一杯の意思でクレープの瞳の中から逃れようとした。その瞬間,壁に掛けられた木枠の中の小さな絵が目に入った。そこには半分の月があった。はなちゃんの部屋にあった絵とは違う。再びクレープの瞳を覗き込みその半分の月の絵を見入った。

 半分の月の上には太陽はなかった。すべて月の中に流れ込んだのだろうか。それとも太陽だけ移動し『絵の外の世界』へと脱したのかしら。半分の月は溶けることもなく存在した。円弧の下も破れていない。でもどうやって木の枠の中の絵に入り込んだのだろうか。すべてはクレープの瞳の中で起こっていること。その狭い世界に存在することだ。近くにあるのに手の届かない空間。その小さな空間に拡がる世界は現実に存在した世界だ。

疲れた。少し眠ろう。

漆黒の瞳

 クレープの鳴き声が聞こえたかと思ったその瞬間,私の足下に猫がすり寄ってくるのを感じた。猫特有の人に甘えるような仕草だ。けれどもその猫がクレープでないことはすぐに分かった。クレープの私への接し方ではないし,そもそもクレープがそんなふうに甘える仕草をしたことはなかった。ようやく視力が戻りかけた目で足下を見ると,そこにはブルーキャットが居た。この子が私にすり寄ったのだ。私は部屋の中の女の子に「この子はあなたの家の猫なの?」と問いかけると彼女は「違う,私の家では猫は飼っていません」と答えた。その答え方は猫は決して飼えないのだと主張していた。彼女の父親がそれを拒んでいるのだろうと私は察した。
 「猫を飼えないのにお家に入れても大丈夫なの?」
 「私の部屋だけならダイジョウブ。猫が帰ったあといつもきれいに掃除をしているから」
 帰ったあと?彼女は猫を飼っているのではなく,部屋を訪れる友達のようにそう表現した。「クレープも…」そう言いかけたけど続けるのをやめた。彼女がはなちゃんだと決まったわけではないし,それに勝手に家に入り込んだ後ろめたさがあった。けれども彼女はそんな私の様子を気にすることもなく「クレープも時々私の部屋を訪れるのよ」と言った。やはりこの部屋の女の子ははなちゃんだと,そのことばを聞いて確信した。  「あなたはなちゃんなんだ」と少し弾んだ声で言った。けれども彼女はそれを肯定も否定もせずに続けた。
 「今日はクレープ来てないわ」

 えっ?と声に出してしまいそうになったがぎりぎりでことばを飲み込んだ。さっき確かにクレープの鳴き声が聞こえた。はなちゃんには聞こえなかったのだろうか?いや,そんなことはない。彼女もすぐそばに居たのだから。この部屋に,いいえこの家に入ってから起こっていることは私を混乱に陥れることばかりだ。そもそもこの家の壁を越えてしまったことにすべての始まりがあったのだろう。けれどもその虚実とも夢の中の出来事のように捉えられることも,いま目の前に居る女の子と私に擦り寄るブルーキャットが存在することが現実であることの証しだ。私が今まで経験した,クロとの邂逅とは異なる事実であることは明らかだ。

 いつまでもここに居てはいけない。少なくともいまは。太陽が半分の月にすべて流れ込む前に出なければいけない。クレープが家に帰りすぐに部屋に入れるようにしなければならない。そう思い始めた。そうしなければ芝の庭を荒らしてしまったことによる大変なことよりももっと大変なことになる予感がした。

 「はなちゃん,ごめんなさい。私帰らなくちゃ。あなたの家から出して」

 自宅までの道のりはまったく覚えていなかった。玄関を開け靴を脱ぎリビングのソファに倒れ込むように横たわった。一日はまだ終わっていないのに,その日のすべてのエネルギーを使い果たしてしまったように感じた。戦場で命を削らんばかりの戦いを凌ぎきった戦士のように,生きて帰れただけでもよかったと感謝しながら眠った。
 次に目を覚ましたとき,私の瞳の中にはクレープの姿が映っていた。あの漆黒の瞳の中に私の姿が映し返されていた。まるで合わせ鏡のように。

瞳の中

 「あなた,はなちゃん?」私の問いかけに彼女は答えなかった。その代わりにそっと手を組み直した。右手の甲を包んでいた左の掌を,今度は左手の甲を覆い隠すように動作した。光の中でわずかながらその仕草が分かった。
「ごめんなさい。私,太陽の光にやられちゃってまともに目が開かないの。少しでいいから休ませてくれる?」そう言った瞬間,もし彼女の父親が帰ってきたら大変なことになるのではないかと怯えた。そんな私の様子を見透かすかのように彼女は「ダイジョウブ。父は陽が沈むまで帰りません」と抑揚のない平坦な声で言った。しゃべり方も直線の上を進んでいるかのようだ。いつもそんなしゃべり方しているの?そう訊きたかったが今の自分が置かれている状況で,そんなことはとても言えないことに気づいてことばを発するのをやめた。  

 彼女は庭から部屋へと招き入れてくれた。少しずつ視界が戻る中,部屋の様子を見ようと努めた。それほど広くない洋室には小さなベッドがある。女の子一人が眠るのには十分な大きさだ。高校生ぐらいの女の子の部屋にしては華やかさはなく,無彩色の部屋のように見えたのは太陽の光のせいだろうか。カーテンの色はベージュで,内側には清潔感のあるレースが掛かっている。ぬいぐるみはなく,壁には木の枠にはめられた水彩画があった。西洋の街並みを緩やかに流れる川辺に,枝だけになった桜の木が緑が濃くなった野草の中から伸びている絵だ。壁の色に吸収されてしまうのではないかと思った。それでは絵としての価値があるのかしら。そう思ったけれども,彼女の部屋にはそれが当然のことなのだろう。フローリングの床にはアイボリーのカーペットが敷いて…………。

 なぜ?私はそこではじめて気づいた。いつか私が想像で描いていた彼女の部屋そのものではないか。はじめて訪れた部屋の風景をすでに見ていたのだ。そんなことあるはずが無い。ずっと平凡に生きてきた私にそんな能力が備わっているはずが無い。何かの間違いだ。あるいはいま見ているもの自体が夢の中なのか。けれどもはっきりと目の前にその空間は存在するし,確かにいま目の前には女の子 - はなちゃんだろうか - が居ることは現実だ。現実と虚実くらい見分けられるはず。でもどうやったら訪れたこともない彼女の部屋の様子を知ることが出来るのだろう。

 ふとクレープのことを思い出した。いつのことだろう。そう,それはクレープが帰ってきたあとのことだ。はなちゃんからの手紙を運んできた月の出ていた夜だ。あのときの月は半月だったのだろうか?月にまるで興味を示さない私には,その日の月の形など思い出す術はない。けれどもその日のクレープの瞳は覚えている。夜の猫の目は黒目をいっぱいに大きくし,人形のように人の顔を覗き込む。黒く大きな瞳はまるで回りの空間を取り込んでしまうのではないかと感じる。そう,私自身も取り込まれてしまうのではないかと危惧するほど。ダメ,猫の目をずっと覗き込んでは。どこかからそんな声が聞こえてきた。けれども一度引き込まれた私は,クレープの瞳から目が逸らせなくなっていた。体は硬直し,逃げようとしても足が動かない。漆黒の瞳の中に吸い込まれていく。ダメ!これ以上は。そう自分に言い聞かせたけれどもすでに遅かった。やがてクレープの瞳の中から小さな部屋が現れた。はなちゃんの部屋だ。そしていま,それと同じ風景の中に私は居る。けれどもクレープの瞳の中に私は居ない。はなちゃんもそこには居ない。冷たい汗が背中に流れた。その刹那,クレープの鳴き声が聞こえた。はっきり聞き取れるくらいに。

転変

 クレープの鳴き声の方を見た。いや,見ようとしたのだが真っ白で何も見えない。何かの写真で見たことがある。光が強すぎてフェンダーの向こう側に未確認物体が現れてきそうなあの場面だ。ああ,母親の言いつけを守らなかった報いだ。太陽を見過ぎたか
らいけないのかしら。いいえ,私が見ていたのは半月なの。お母さん。太陽はたまたま・・・・/rp月の側にいただけなの。そんな言い訳しても私の母から「太陽の明るさが月に負けるはずないでしょ。ましてや半分の月に」そう一蹴されそうだ。あるいは映画のワンシーンだ。お約束の神秘的なそれでもって大掛かりな音響と共に,謎の生命体が光の中から登場する。小さくて無機質な体表だか衣装だかを身に着けているあの生命体だ。そんなことを言うと,ダンナからは「低俗的で凡庸な表現だな」とこれまた一蹴されるだろう。どうしたの?眩しい光の中で母親やダンナのことを思い出す。私は死んでしまうのかしら。クレープ!もっと強く鳴いて。私をここから引きずり出して。強くそう願った瞬間,光の向こう側から女の子の声が聞こえてきた。か細く不安そうに,でも声の本質は優しさが感じられた。
「ごめんなさい。間違って入ってしまったの」
「間違って……?」
「ええと,何て言えばいいのかな?気がついたら塀の中に居たの。決して怪しいものじゃないから」
 けれども言っている自分がそう思うのだから,彼女も同じように感じただろう。それは光に目をやられ,真っ直ぐ彼女の方を向くことができない,見知らぬおばさんが自分の家の敷地内で言い訳をしても,何の説得力も持たないことだ。
「具合が悪いのですか?」
 その声を聞いた瞬間,ここが芝生の庭の家であること,彼女がいつかのインターホンに出た女の子であることを確信した。
「この家に猫が入って来なかったかしら?ブルーキャットと黒猫。そしてもう一匹は三毛猫なんだけど」
 私は目を開けずに,それでも彼女の方に顔を向けてそう言った。

 光の向こうで彼女は真っ直ぐ立ち,私の方も真っ直ぐ見ているのだろう。そう,クレープが運んでくれるあの手紙の文字のように真っ直ぐに。ナイフで綺麗に切り取られた満月の半分の月の切り口のように。その鋭い視線は,彼女の物腰とは裏腹に私に鋭く突き刺さってくる。見えなくても強い視線を感じる。
「私,芝生を荒らしちゃったかしら」
「ええ」
「大変なことになるのかな?」
「そうですね。でも父はいま外出中なので私が何とかしておきます」
「それじゃあ申し訳なさ過ぎるわ。やったのは私。責任取るわ」
「それは無理です。どんなことをしてもあなたに償うことはできません」
 どんなことをしても私に償うことができない。彼女のことばを唇が動かないように,そして囁くように復唱した。
「それはどういうこと?」
「知らなくていいことだし,きっとあなたには理解できないことなのです」
 ほんの少しだけ光の向こう側が見えてきた。その瞬間猫の鳴き声が聞こえてきた。クレープの声だ。同時に彼女も「ク…」と言いかけた。
「あなた,はなちゃん?」

月に流れ込む太陽

 半分になった月を眺めてどれくらい時間が経ったのだろう。1時間?それとも3時間だろうか。半月を見てもその位置を変えていない。月は時間とともに西に移動するはずだ。だとすると私が芝生の庭に入ってから時間が経過していないことになる。そんなことはないはずだ。時計を持たずに出かけたけれども確かに時間は過ぎている。陽射しは確実に変化している。それなのに月の位置は同じままだ。理科に疎い私でも分かる。太陽と月は同じように地球の周りを回っている。太陽だけが動き月が動かないことなどあり得ない。けれども半分になった月は決して動くこともなく天空に留まっていた。やがて太陽がそれに重なろうとしている。いや,重ならない。太陽の方が少し上方を通過しようとしていた。止まっている月の上を太陽が通過する?そんな天体ショーを見られるのならば,世界中の天文ファンは,仕事も授業も家事もすべて放棄して見るだろう。星に興味の無い私でさえ見入ることだろう。それがいま,私の目の前で私だけのために起ころうとしているのだ。太陽が月に近づけば,太陽の明るさで月はかすんでしまう。夜中に見る月の明るさに比べれば昼の月のそれは頼りなく白く見える。ましてや太陽が月の真上に来ようものならば,半分しかない月は見えなくなってしまうだろう。満月であったとしてもその明るさは太陽の前では勝負にならない。「満月が昼に出るわけないじゃないか」。ダンナがテレビのコマーシャルを見ながら嘲笑うように言っていたことを思い出した。そうなの?と聞き返すとダンナは背を向けながら言った。
「このコマーシャルを作ったヤツと一緒だな。月は自分では光ることが出来ない」
「そのくらい私だって知ってるわよ」
「じゃあ,満月は太陽と地球,月がどういう位置にあればなるか分かるかい?」
 遠い記憶を思い起こした。小学校の理科で教わったことがあった。満月は太陽の光を真っ正面で受け,その反射が地球に届くのだった。
「太陽・地球・月の順番だったかな」
「その順にほぼ真っ直ぐに並べば満月になる」
 え~と?そう言うとダンナはため息をつきながら「満月は陽が沈むときに昇り,日の出と共に沈むんだよ」と不機嫌そうに言い放った。
「昼の空を見て『満月だ』は滑稽すぎる」そう言うとそれからダンナは黙ってしまった。満月の半分しかない月が太陽の明るさに勝てるはずがない。それなのに太陽が半月の上を通過しようとしているいま,その存在は太陽に負けないくらい輝いていた。そんなバカな!私は芝生の家に閉じ込められたことさえ忘れ,半月と太陽を見つめた。こどもの頃,母親から言われた「太陽は見ちゃダメだよ」の言葉を思い出しながらも,見つめない訳にはいかなかった。半月の上弦の少し上を太陽が通過する。その瞬間,太陽が溶け始めた。え?溶けるのは月の方じゃないの。どうして熱いはずの太陽が溶けるの。けれども冷静になって見つめると,溶けているのではなく,太陽が月の中に溶解した何かを流し込んでいるように見えた。やがて上弦の月の真っ直ぐな切り口を太陽が通過する。なぜ月は動かないの?私の中で常識が崩れていくのと同時に,背筋には冷たい雫が流れていく。それが自分の汗であることは明らかなのに氷水のように冷たく感じた。やがて足下が崩れはじめていくのを感じた。3匹の猫の声が聞こえてきた。ひとつはブルーキャット,もうひとつはクロ,そして3匹目はクレープの鳴き声だ。クレープ!私は叫んだ。

透明な壁

 クレープに手紙を届けて貰ってからもう数日が過ぎた。クレープの飼い主さんはどうしたのかしら。手紙を読んで何か失望したのかしら。そんなに酷いことは書いていないはず。.それにクレープのことを好きな人がぞんざいなことをするはずがない。そう信じたい。それとも私の真っ直ぐで,まるで活字みたいな文字の手紙に嫌気がさしたのかしら。こどもの頃から父親から厳しくしつけられた。真っ直ぐな字を書く切っ掛けは,小学生の時の作文,そうあれは「おくりもの」という題材で作文を書かされた時だ。夏休みの宿題ではなく,暑くなる前のおそらく母の日か父の日が近かった頃の宿題だ。周りの友達はそんな時期の親への感謝と何をあげれば父や母が喜んでくれるのか。そんな内容が大半を占めていたように記憶している。なかなか書き進めることができなかったわたしは作文の宿題を書いた原稿を机の上に置きっ放しにしておいた。あのとき早く鞄の中に仕舞えばよかったのに,なぜだか机の上に作文の原稿用紙は残されてあった。それを見た父が憤怒して寛いでいた私のところにやって来た。父の左手には握りしめられた原稿用紙がちぎれそうになりながらかろうじてその形が保たれていた。わたしはすぐに自分のしたことの間違いに気づいた。何が間違っているのかって?内容が悪いとか,作文の対象がいけないとかじゃなかった。文字を丁寧に書いていなかったことが間違いだった。父の教えは絶対だったし,その教えを破ることなどわたしの家では許されることではなかった。けれどもその作文を書いたときわたしはとても疲れていた。子どもながら,いいえ子どもだからこそ耐えられない疲れがあった。だからその日は父の教えを守らずにいた。見せなければ何の問題も起こらない。そう思った。子どもの浅はかな判断だった。いいえ,それより一刻も早く鞄にしまうべきだった。

 それ以来わたしはいつ何時でも真っ直ぐな活字のようなきれいな字を,いいえつまらない字を書くようになった。どこまで真っ直ぐな,直線の上を進む字を書いた。まるで半月の上を這うように,円を真っ二つに割った直線の上を突き進む字を書くようになった。半月?ふと空を見上げたらそこには半月が浮かんでいた。ついさっきまで薄曇りの空から雲の切れ間が出来たのだ。なんて美しい月なの。あの半分の月の弦に文字を載せたとしたらどうかしら?わたしでもそこまで真っ直ぐな直線にきれいに文字を並べる自信はない。それくらい今日の半月はきれいな直線を引いている。じっと月を見つめているとその中に吸い込まれてしまう錯覚に陥った。あぶない!思わずそう叫んでしまった。そのとき猫の鳴き声が聞こえた。短く「ミャ」とその声は庭の芝生の方から聞こえてきた。
 「クレープ?」
思わず声の方向に向けて叫んだ。いつもならそんなふうに大きな声を出さないのに,そのときはそうせずにはいられなかった。それはなぜ?と問われても答えられない。だって自分でもその訳が解らないのだから。声の主はクレープかもしれない。クレープじゃないかもしれない。わたしにはその時まだ,猫の声を聴き分けられるほど猫との付き合いがなかったのだから。

 声が聞こえた芝生を見た。よその猫が荒らしてしまったりしていないかしら?そうなったら大変だわ。怖ろしいことが起こってしまう。でも声の主の方を見ても,あるいは壁際や玄関に通じる通路を見ても芝生はきれいなままだ。よかった。不意にわたしは手紙を記したくなった。クレープに届けて貰うためだ。それって可笑しいこと?だってまだ返事も貰っていないのにそれより先に返事を書くなんてどうかしているかしら。自問自答しながらも書かずにはいられなかった。机の抽斗から便せんを取りだしペンを取った。半月が再び雲の影に隠れはじめたことなど,そのときは知る由も無かった。

半分の月

 芝生の家の中から聞こえてきた猫の鳴き声。クレープ?いや,この声はクレープのものではない。クロのものでもない。長いこと猫を飼っていると,それぞれの猫の鳴き方や声の質は分かるようになる。誰でもがそうなのかは知らないが,私にはそれができたのだ。長い間入院している人が,見舞客の足音でそれが誰なのか分かるように。鳴き声の方を見ると,見たことのない猫が私の方をじっと見つめていた。全身が灰色のブルーキャットだ。日本の猫には少ないタイプで,いかにも上品を身に纏った感じがする。そして冷静に状況を判断し,今の私の境遇を見透かされているように感じた。いやいや,何を怯えているのだろう。相手は猫ではないか。そう自分に言い聞かせようとしたのだが,そんな様子さえもすべてお見通しだと言わんばかりにブルーキャットは私を鋭く見た。その虹彩も碧く透き通り,縦に長く伸びた瞳はまるで2本のナイフのように見えた。ブルーキャットは再び小さな声で短く「ミャ」と鳴くと私に背を向け歩き始めた。  「待って!」 と思わず声を出してしまった。いけない!家の人に聞かれたりしなかっただろうか。しゃがんでいた姿勢をさらに低くして身を隠した。けれどもそれはほとんど無駄な行動だった。しばらくその姿勢のまま息を飲みながら過ごした。幸いなことに家の人は誰も出てこなかった。留守なのかしら?それならば一刻も早くこの場を去らなければいけない。

 空を見上げた。雲の間に月が見えた。家を出るときは曇り空だったのに,いつの間にか青空が見え始めていたのだ。月は雲の切れ間の隙を突くかのようにその存在を示した。半月だ。円を真っ二つに分けるその直線は美しすぎるほどだ。定規で丁寧に線を引き,そこにカッターの刃を鋭く立て,何の迷いもなく切り裂いたかのように。切り口に手を添えようものならば,指先を切ってしまうほど鋭い切り口だ。自然界にこれほどの綺麗な直線は他に存在するのだろうか。半月の切り口をそのまま延長していったらどこに辿り着くのかしら。宇宙の果てまで行き,その深淵に飲み込まれるのだろうか。あるいは直線は深淵さえも打ち破り,再び元の位置に戻るのではないか。壮大な回廊のように。宇宙の果てから戻ったとしたら,それはもはや直線ではなく円になってしまうのではないかしら?そういえばいつかダンナが言っていた。直線は円の一部なんだ。その言葉を聞いたときまったくその言葉の意味が理解できなかった。けれども今,半月の美しい直線を見て理解できた。直線は円の一部なのだ。しかもその月の片側には円の一部であるきれいな弧が描かれている。その弧の滑らかな曲線に見とれていると再びブルーキャットの鳴き声が聞こえた。そして今,自分の置かれている状況を認識することが出来た。どこまでも続く半円の直線とその円弧。私はその中に捕らわれているのだろう。それゆえ半円の中から抜け出せないのだ。ようやく自分の置かれている意味が飲み込めた。ここから出ることは永遠に出来ないのだ。私は小さな半円に閉じ込められた。そしてその淵をどんなに辿ったところでその領域からは出られないのだ。もう二度と外の世界には出られない。クレープにもダンナにも,そしてはなちゃんにも会えない。それが私の置かれた世界なのだ。半分になった月を見ながら,それでも私は絶望を感じなかった。これが夢なのだと思うわけでもなく,確かな現実として捉えていた。決して安直な考えがあったわけではない。家に戻れずクレープの世話が出来ず,ダンナに食卓を提供できなくてもそれはひとつの世界なのだと。クレープはどうなるのだろう?きっと私が居ない世界で,お互いの存在をそれなりに認めながらもダンナと共同生活するのだろう。過不足を感じながらそれでもどこかで妥協しつつ過ごすのだろうか。妥協?あのダンナがそんなことをするのだろうか。ああ,もうどうでもいい。今はずっと半分になった月を見ていたい。永遠の直線を眺めていたいのだ。