演技するねこ

 私が学校から帰ってしばらくの間,ぶちねこはここ数日そうしていたように,ちょっと痛そうに左足を引きずっていた。もともとは野生のねこだったくせに治りが悪いのだと思いながら,その引きずる足を見ていた。でも,同じ家に住んでいると同情心がはたらくのが道理で,徐々に気の毒に感じ始めた。あのことがあるまでは。私がこどもの頃,母親は働きに出ることもなくしっかりと主婦をやっていた。母は特別生き物が好きだったわけではなかったが,弟が拾ってきたぶちは彼の強い要望によって飼うようになった。まだ子ねこではあったが,生まれてすぐというほどのものではなかったし,トイレのしつけなどほとんどせずにぶちは生活していた。犬と違い散歩の必要もなかったので簡単に我が家に迎え入れられた。最初のうちは無関心だった母も,飼い始めるとやがてそれなりに相手をするようになった。母をはじめ,家族全員がねこの初心者だったため,最初のうちはいくつかの間違いをおかしていた。そのひとつにイカを食べさせたことがあった。その頃の我が家では,ねこは魚介類を食べるものだと信じ切っていた。『サザエさん』の主題歌の影響が大きかったのだ。だから当然イカも与えた。幸いにも一度にたくさん与えなかったため,ぶちはイカによる体調不良は起こさなかったと思う。たぶん。初めて毛玉を掃き出したときはさすがに驚いた。全身を収縮するように,しかも腹の底からものを掃き出す姿はもうこれでぶちもお終いか,と半分諦めかけた。けれどもぶちは,ことが済んでからは平然と毛繕いをはじめ,しばらくすると唖然としていた私と母の前から姿を消した。

 そうそう,ぶちの足の話が途中だった。私が学校から帰ったある日のことだった。家には私と母が居た。弟は学校から帰ると,すぐに友達の家に遊びに出かけていた。母は台所の掃除をしていた。洗い物ではなく掃除をしていた。ガスレンジの汚れを丁寧に拭き取っていたのだ。最初はレンジに着いたカスをキッチンペーパーで落とす。次に柔らかい布に湯を湿らせ,中性洗剤をしみ込ませたものでゆっくりとレンジの上を円を描くように磨いていく。その作業に最も時間をかける。その後で,食器洗い用の洗剤をスポンジに付け,油分を取り除く。中性洗剤と食器洗い用の洗剤を使う順番が逆だと思うかもしれないが,この方が確かにできあがりはきれいになる。最後は乾いた布で磨く。その作業をしているときに,私はすぐ隣で夕飯の準備の手伝いをやらされていた。ぶちはリビングのソファではなく,ソファのすぐ下にある座布団の上で寝ているのか,寝ていないのかよく分からないような状態だった。私が味噌汁に入れるナスや長ネギを切りはじめたその時,ぶちが背後で動き始めた気配を感じた。ちらっと見ると座布団の上にいたぶちの姿はなく,台所からは直接見えないテーブルの陰に入ったようだった。母は相変わらずガスレンジに熱心だった。長ネギを切り終え,ザルにいったん移そうとした。ザルはシステムキッチンの下段に置いてあった。その位置はちょうど私の背中側,すなわちぶちがいたテーブルの方向だったので,私は180度回転することになった。その時だ。ぶちがスタスタ歩いているではないか。私が「アア~,歩いてる」と叫ぶと,母もすぐにガスレンジから目を離し私が見ている方を見た。すると次の瞬間,ぶちは再び足を引きずりながら歩き出した。「おいおい,それはないだろう」とねこに突っ込みを入れても仕方ないのだが,そう言わずにいられなかった。当然私と母は顔を合わせて笑ってしまった。ねこも演技をすることを“初心者”の私たちは知ったのだ。