逡巡

 はなちゃん,こんにちは。返事が遅くなってごめんなさい。クレープの首輪からはなちゃんの手紙が床に落ちていたのに気づきませんでした。  ここまで書いてすでに信用金庫のメモの半分が埋め尽くされていた。私の字が大きすぎるのだ。いやいやこんなことを記している場合ではなかろう。私のミスの言い訳などこの短い手紙に必要ないはずだ。メモを破り捨て書き直した。  はなちゃん,手紙ありがとう。すごく嬉しかった。『はな』ってすごく可愛らしい名前だね。私は主婦です。家に居ることが多いのでクレープとの時間は大切なひとときなのです。はなちゃんは受験生なのですね。体はダイジョウブ?私は元気だけが取り柄です。
 う~む,これも違う。何を書けばいいのだろう。何が大事なのか。年上として気の利いたひと言でも書ければいいのだが,私にそんな文才は持ち合わせていない。向こうが自己紹介をしたのだから,こちらもそうするのが筋だろう。それにこれからもクレープを通して彼女とはやりとりするはずだ。そう思い結局は先ほど書き直したメモにひと言だけ書き加えて終えた。メモはクレープが戻ってきたらすぐに首輪のプレートに入れられるように大事にポケットに仕舞った。再び拭き掃除を続けようとしたのだが,何だか急にその気持ちがしぼんでしまった。はなちゃんからの手紙を読み,考えずにはいられなかったからだ。受験を控えた女の子で,家のことや体のことがあって学校を休んでいる。病気なのか家庭の事情なのか。何が彼女の身に降りかかっているのだろうか。彼女の声はそこまで弱々しいものではなかった。いやそもそも芝生の家の彼女がはなちゃんであると確信できたわけではない。学校をほとんど休んだことのない健康優良児だった私には,学校は毎日行くのが当たり前で,休むこと自体は一種のイベントのように特別な出来事だった。それが日常だったし,私の友達や同級生が何日も休んでいたという記憶がなかった。はなちゃんが休んで落ち込んでいるところにクレープが現れたのが事実だ。クレープは決して愛想がいい猫ではないし,人に媚びるようなこともしない。ただ単に彼女の部屋に入りそばにいただけなのだろう。けれども声をかけてシッポで反応したり,そばで寝てくれるだけで彼女の安らぎになったのだろう。腑に落ちないのは,クレープはこれまで私に対して添い寝などしたことはなかった。私がいるそばのソファで眠ることはあっても,私が寝ているその場所に来ることはなかった。はなちゃんと私に何の違いがあるのだろうか?におい,それとも私の寝相が悪く,クレープが危険を察しているのだろうか。いや,私はそんなに寝相が悪いと自分では思っていない。これまでに飼った猫には,一緒の布団で寝たこともあったのだから大丈夫なはずだ。

 ポケットに仕舞った手紙は,クレープに届けて貰うしかない。そのクレープはいま出かけている。はなちゃんの家に向かったのだろうか。クレープが彼女の部屋に入り,はなちゃんはすぐに首輪のプレートに手を掛けるだろうか。そしてそこに何もないことが分かると小さくため息をつくのだろうか。その姿を想像するだけでいたたまれなくなる。早く手紙を届けたい。クレープ早く戻ってきて。そう願う以外いまの私にできることはなかった。けれどもクレープは夜までは帰ってこないだろう。私だけの勝手な都合で行動する訳がない。猫は気まぐれだ。もしかしたら今日は彼女の家にそのまま泊まってしまうかもしれない。考えが悪い方にばかり行ってしまう。これはよくないことだ。家に居ると余計考え込んでしまいそうだ。そう思い私は外に出ることにした。買い物をするとか,どこかに向かおうとかそうした類いのことではなく,家を出て外の空気に触れることが必要だとそう感じたのだ。