はじめてのプレゼント

 何事もなかったかのようにクレープは帰ってきた。もうすぐ昼になるのは確かだったが,午前中に帰ってくるとは思っていなかった。クレープは首輪をしたまま,庭からリビングに上がった。私は冷や麦をすくいかけた箸をテーブルに置き,彼女の近くに座った。クレープは撫でてもらえると勘違いしたのか,私の目の前でちょこんと座った。私は彼女の要求に応え,首輪にはすぐに手を掛けず,頭から背中に向けてゆっくり掌で六回撫でた。するとクレープは〈グルグルグ~ル〉と喉を鳴らし始めた。それと同時に,しっぽを時々左右に大きく振っていた。ねこは嬉しいとき喉を鳴らす。その音は私の耳に心地良く聞こえてきた。その一方で,犬とは反対にねこは機嫌が悪いときにしっぽを大きく振ると言われる。でも,私が関わったどのねこも,必ずしもその法則には100%当てはまらなかった。しっぽを振る=機嫌が悪い,は数学の公式のようにいつも正しいとは言えなかった。いま私の目の前にいるクレープもそうだ。少なくとも彼女は機嫌など悪くなかった。私の経験では,ねこはしっぽを振ることで,自分のバランスを取っているように見えた。ねこのバランス感覚は,高くて細い塀の上をそこが道と変わらぬように歩くことから容易に想像できる。塀どころか,ベランダの手すりの上でさえものともせずに乗ることだってある。人間とはそのあたりは異なるのだろう。もっともそのとき,クレープがバランスを取るためにしっぽを振っていたわけでないのは確かだった。

 頭から背中,次にクレープを膝の上に載せ喉から腹へと私は丁寧に撫でていった。そのたびに彼女の喉は大きな音を立てて私に自分が気持ちいいんだ,ということを教えてくれた。一通り撫で終わると,クレープは私の膝から下りソファの上に移動した。彼女はそこで毛繕いをはじめた。お腹を長くザラザラした舌で嘗め,次に左足に移った。体勢を変えて右足,さらに起き上がって前足を嘗めてから今度は顔の手入れをはじめた。そう,ねこは人間に触られたあとその匂いを消すために,気が済むまで体の手入れをする。クレープは長いこと手入れに熱心だった。私は彼女の手入れが済むまでじっとその様子を眺めていた。すべての作業が終わるとクレープはソファの少し盛り上がっているところを枕代わりにするようにして横になった。

 クレープはすぐに眠った。私は彼女の首輪にやっと手を掛けることができた。本当はクレープが帰ってきてすぐにでも首輪の中の手紙を見たかった。でも,その気持ちを抑えた。クレープの気持ちに応えたかったし,それにすぐに手紙を見ることが怖かったのだ。それはクレープがいま目の前で静かに眠っているときでも変わらなかった。私は好きな男の子にはじめて貰ったプレゼントの箱をドキドキしながら開けるようなときめきを覚えながら,首輪のプレートから手紙を取り出した。取り出すと確かにそれは返事だと分かった。私が前の日に入れた手紙と紙の感触が違ったのだ。私が入れた手紙は信用金庫のツルツルしたメモ用紙だったが,彼女?の手紙はおそらくちゃんとした便せんを使っていた。メモ用紙よりもザラザラした感触が親指と人差し指にすぐに伝わってきた。心臓の高鳴りを押さえながら便せんを開いた。そこには前と同じように,整った水平な真っ直ぐな文字が並んでいた。