しっぽの振り方とクレープの機嫌

 後味の悪い夢から覚めたとき,日はまだ十分高い位置にあった。夢と湿気のせいで私は汗をかいていた。すぐに時計を見る気にはなれなかったが,おおよその時間の見当はついた。上半身だけ起き上がり,しばらくはぼんやりしていた。そして思い出したように私は自分の右足に目をやった。もちろん私の右足は無事でそこに指はちゃんとついていた。私はホッとしながら,はじめて時計を見ることができた。けれども時計を見てもその時間が自分の中で認識できなかった。私の網膜にはしっかりと時計盤が焼き付いているはずなのに,それを脳まで伝達することができなかったのだ。こんな状態ではいけない,と思い私は洗面所に行き冷たい水で顔を洗った。そうしてやっと私は現実の世界に戻れた気がした。洗面所に置いてあるデジタル時計は1時32分を表示していた。その時間は,さっき私がおぼろげに思った時間と5分と違っていなかった。私は昔から,時計のない場所にいてもおおよその時刻を言い当てることができた。それは今日のように一度眠ってしまっても,何の問題もなく言い当てられるのだ。

 リビングに戻りソファに目をやると,そこにはまだクレープは眠っていた。さっき見たときと,頭の位置は時計回りに150度ほど庭の方に向き直っていた。もちろん首輪はつけたまま眠っている。私はクレープの前まで行き,さっきと同じように床に座り間近でクレープを,いやクレープのしている首輪をじっと見つめてみた。首輪のプレートには私が書いた返事が入ったままだった。私は自分が書いた手紙が気に掛かり,クレープが起きないようにそっとプレートから手紙を引き出した。そうして最初に手紙を書いたときと同じように,自分の書いた文字を何度も読み返してみた。「大きな字」と呟いてみた。彼女が書いた手紙の文字と比べると,私の字はまるで拡大コピーをしたかのような字の大きさだった。これじゃあ男と間違えられるかしら,そんな懸念がはしった。でもこれが私の字だし,あえて字を作る必要もないだろう。そんなことをしても,ずっと続くはずもないだろうし。それに昼日中にこんなのんびりした手紙を大の大人の男がするなど考えつかないだろう。

 結局,手紙は直さずにそのままクレープの首輪に戻した。手紙を出して戻すまで,クレープはずっと眠り続けた。そんな姿を見て私はクレープに向かって,「お前は本当に野良猫だったのか?こんなにも人間に対して無警戒で大丈夫か。外には怖い人間だっているかもしれないんだぞ」と言った。 言い終わるとクレープははじめてしっぽで反応した。左右に大きく振ったのだ。これは機嫌が悪い証拠だ。眠っているところをさんざん邪魔され,さすがにもう放っておいてくれ,と言わんばかりの勢いだ。しっぽの振り方でねこの気分が判ることなど,こどもの頃から何匹もねこと付きあってきた私には簡単なことだった。クレープがしっぽを二往復半したところで私は彼女の前から立ち上がり,キッチンに向かった。再びラジオのスイッチを入れ,FMを聴きながら後片付けのしてなかった午前中の皿を洗い始めた。洗い物をしながら,クレープに気づかれないように何度かそっとソファの方に目を向けたのだが,クレープに動く気配はなかった。早く出かけて手紙を届けてくれないだろうかと思った。私の手紙を見て彼女はどんな返事をくれるのだろう。そんな私の思いをよそに,その日のクレープは夜まで出かけることはなかった。そう,夜までは。