ささやかな楽しみ

 ねこの生態を見るには,好奇心を持ってすればいくらでも試みることができる。簡単に試せることは瞳孔の開き,瞳の変化だ。その昔,忍者はねこの瞳を見て時刻を知ったという。ねこの瞳は光に応じて変化する。昼前はウソのように細くなり,これでほんうとに見えているのかしらと思う。夜には,幼いこどものようにその瞳はまんまるになり,何かを訴えかけているかのようにこちらを見る。じっとのぞき込むと,私の姿がしっかり確認でき「こいつの目の中には,ちゃんと私が入っている」のだと感じる。そう,確かにねこの瞳は昼間に縦に細長くなり,夜には童心に返ったようにまんまるの瞳を向けてくれる。

 私はねこが『ひるむ』瞬間が好きだ。ねこは頭を撫でられることを好む。こどもの頃,母親になめられた記憶が,ねこたちのDNAに刻み込まれていると,何かの本に書かれていたように覚えている。それは,ねこだけではなく,あらゆる動物に当てはまることかもしれない。ねこや犬,馬にしてもこどもの頃に母親になめられている姿を見ると,安心以上のものを彼らは感じているように見える。

 さてさて,ねこが頭を撫でられると満足が満面に溢れた顔をする。少しでも手を休めると「これで終わり?まだまだでしょ」といった顔でこちらに視線を向ける。こっちだってやらなければならないことがあるし,いつまでもあんた達の相手などしていられないわよ,といったオーラを出しているつもりなのだが,彼らには何の意味も成さなかった。遠い昔から守られたしきたりのように毛繕いをしているのだ。憎らしいほどに。結局,彼らの頭を撫でるハメになっている。掃除や洗濯,それに見たいテレビだってある。そんな一日のゆっくりした私の計画を緩やかに乱していってくれる。

 でも,ささやかな楽しみがある。それは撫でているときにひるむ彼らの目だ。ゆっくりと髭のあたりから閉じている目の方を手のひらの腹のあたりで撫でたそのすぐあとに,閉じている目を開いてみると,彼らは思いっきり白目をむいている。よほど気持ちがいいのか,あるいは人間を信じ切っているのか,そんな無防備な姿をさらけ出してくれる。ぶちねこをはじめ,我が家にやって来たねこはみんなペットショップで買ってきたねこではない。近所でもらってきたり,野良ねこがいつの間にか住みついたりした。もともとは野生のはずだった。なのに,彼らは人間に対して無防備この上ない姿を見せてくれる。

 もっとも,突然爪を立てては,手の甲に縦に傷の筋をつくってくれる。じゃらすのは利き手の右手なのだが,その手にひっかき傷を残してくれるのだ。買い物を終えて支払おうとするとき,引っかかれたばかりだと,そこにみみず腫れの筋がある。たいていの店員はちょっと引く。だって,いい歳した女がそんな傷を負うのは普通ではないのだ。恥ずかしさとともに,代金を払って店を出るのだ。買い物を終え,家に帰ると縦筋の原因をつくった当の本人は,取り込んであった洗濯物のすぐ隣のソファで気持ちよさそうに寝ていた。憎めないその姿を見てホッとする私は,すでに彼らのペースに引き込まれてしまっているのだろう。