ねこと蟻

 結婚してからもねこを飼うことができたのは,ダンナの趣味が関係している。結果から言うと,私たちは最初から一軒家に住んだのだ。マンションでねこを飼うこともそう珍しいことではなくなったが,やはりまだまだマンションではペット禁止の方が多数派だ。結婚する前に新居はどうするか当然話し合いをもった。最初のうちはマンション暮らしが当たり前だと思っていた。新婚生活=マンション暮らしという等式が,私の中にはずっと以前からすり込まれていたのだ。何年かマンションに住み,こどもができ少し成長した頃に,ダンナが「こどものためにそろそろ家を建てよう」。そんな勝手なシナリオを作っていたのだ。その計画を最初から壊したのはダンナだった。彼はどうしても土地付きの一軒家にこだわった。ダンナは年齢からすると決して給料が悪いわけではなかった。けれども,それほど高収入だったわけでもない。それに何よりもずっと一軒家に住んでいた私には,マンション暮らしという言葉がとても魅力的だったのだ。一度でいいから高い場所から街を見下ろしてみたかったのだ。

 ダンナの趣味は蟻だ。蟻の観察が趣味なのだ。あまり他人には言わない。いや,言えないというのが本当だろう。だって,主婦同士で自分の夫の趣味は何か,という話題になったとき「うちの主人は,蟻の観察が趣味なんです」などと言えるだろうか。いい大人が蟻の観察をしていると,高校の生物の先生か大学の研究室で論文でも書いているものだと勘違いされかねない。そんな高尚なものではないと思う。たぶん。仮に趣味として認めてくれたにしても,その先の話が続かない。「えさは何をあげているの」とか,「雨が降ったら蟻の巣はどうなるのかしら」などと聞かれても私には答えようがない。だって,私にはまったく興味のないことなのだから。もっとも,そんな殊勝な質問をする主婦などほとんどいないと思うけれども。

 ダンナは彼が小学生の頃の夏休みの宿題で蟻の観察をした。私には理解しがたいのだが,蟻の社会や生態には人間以上に複雑なことがあるらしい。そんなことどうでもいい。だって,どの世の中に結婚する条件として,蟻のために一軒家に住むことを挙げる人がいるのだろうか。少なくとも私の知る限りでは,うちのダンナ以外にそういった人はまわりにいなかった。最初,私はそれならマンションに大型の水槽を置くという妥協案を示した。それが精一杯のことだった。けれども,彼にはそれはあまりにも不十分すぎたようだ。人工的につくられた空間では,蟻が本来あるべき姿は存在しないらしい。そんなこと知らない。それよりも私の本来あるべき未来像は存在しないのだろうか。さらに追い打ちを掛けるように,ダンナの両親が一戸建ての購入に手を貸した。一生ものの家に住めるのならかわいい息子に出費するのはやぶさかでなかったようだ。そろそろ働くことをリタイアする大人には,若かった私にはとうてい敵うことなどできなかった。その頃の私の心のどこかに,ねこの居ない生活をしてみたいといった気持ちがあったのかもしれない。

 こうして私たちは一軒家で新婚生活をスタートさせた。友達から思いっきり羨ましがられたことは言うまでもない。そして庭に蟻の巣のある二人っきりの我が家には,結婚してわずか二週間と三日目で三毛猫という同居者がやって来たのだ。