長い午前の時間

 彼女もまだ最初は子ねこだった。その後は皮肉なことに,拾ってきた私との相性は最悪だった。ただ,それも最初からのことではなかった。何がキッカケだったのか,今となっては思い出せないが,多感な時期を迎えていた私のわがままが最大の原因だったのだろう。その頃の自分自身の姿を思い出させられるように,私は“その場所”に佇んでいた。なぜ,私がクロネコとはじめて会った場所に,大人になってから再び出くわしたのか,まったく訳が分からないままその場所に連れて行かれたのだ。造園の庭には少し季節はずれになってしまったツツジの木が数え切れないほど並んでいた。その向こう側には柘植の木が,はっきりと手入れされているのが分かるように刈られた姿で並んでいた。梅雨時であったことも手伝ってか,十分に水が与えられていることを主張するかのように,葉の色はその緑色を誇示していた。柘植の木の向こう側に葉をつけた百日紅が,その枝を綺麗な三次曲線のような滑らかな素肌をさらしていた。百日紅?造園の庭にたった一本の百日紅がなぜ植えられているのだろう。百日紅,猿滑り,サルスベリ,そう唱えているといつの間にか,私は自宅の前に立っていた。

 帰ってからは昼食の準備に取り掛かった。鍋に十分すぎるほどたっぷりの水を張りガスに火をつけた。FMからは“イエスタデーワンスモア”がゆったりと流れていた。湯が沸くまでに,野菜室からショウガとネギを出し,メロディーに合わすようにゆっくりとおろし金でショウガをすり下ろした。ネギはできる限り細かく刻んだ。小さな瓶に入れておいた黒ごまをまな板にふたつまみ出し,包丁でさらに細かく刻んだ。やがて鍋からは湯気が立った。私は蓋を無造作に取ろうとした。指に熱が伝わるまでにはそれほど時間は要さなかった。「あっ」と小さな声を出して,私は蓋を床に落とした。その音ではじめて私はいま自分が家の中にいることに気づいた。「ああ,冷や麦を作っていたんだ」そう呟くと自分の存在が確認できた。鍋に静かに麺を入れた。四分ほど茹でてから,大きめの籐のザルに冷や麦をあけた。蛇口からやさしい水流で麺を洗った。口の広いガラスの器に冷水を注ぎ,そこにロックアイスを九つ放り込んだ。左手の中指を中心に薬指と人差し指でかき回すと,その冷たさが頭の芯まで伝わってきた。籐のザルの中の麺を,右の掌でゆっくり,つきたての餅の形を整えるように水平に動かしながらぬめりを取っていった。出来上がった麺をガラスと氷の中に移すと,しばらくぼんやりとその姿を眺めていた。眺めながら今日これまでにあったことを頭の中で整理しようと試みた。起きてから朝食の準備をした。ダンナを送り出した。そしていつものように布団を干し,洗濯をし,クレープが出かけるのを見た。いつもと同じだ。そして芝生の家に行った。チャイムを鳴らした。女の子がインターホンに出た。彼女は芝生を荒らすと大変なことが起こると言っていた。家の中には誰かがいた。いや,いたのかもしれない。少なくとも彼女には時間がなかった。そして 私はクロネコと出会った場所にいた。

 初めてのことだった。午前中に一日が長いと感じたのは。いまはまだ昼前?そう呟きながら私はひと口目の冷や麦をすすった。黒ごまの香りが口いっぱいに広がり,次の箸を進めようとした。カランという麺をすくう音と同時にクレープが庭から帰ってきた。

迷い道

 「どちら様でしょうか」と女の子は,会社で研修をきちんと受けたような感じの,少し線の細い声で言った。
 「あの~,ちょっとお話ししたいことがあるんですが」と,私は彼女の問に答えず,いきなり本題に入ろうとした。
 「どういったご用件でしょうか」と彼女はまたもや普段練習しているようなしゃべり方で言った。
 「庭の芝のこととねこのことです」
 「芝生?......ねこ?」と,彼女は二つの単語の語尾を上げるような感じで,インターホンから返事をした。その声から私は彼女がどんな容姿か想像してみた。いま,家の中で少し緊張しながら真っ直ぐ立ち,インターホン越しに話している彼女の姿を想像してみた。そう,私には少し余裕が出てきたのだ。
 「ねこが胸焼けしたときに草を食べるのは知ってるかしら。お宅の庭に立派な芝生が生えているので,もしかしてねこが遊びに来るんじゃないかしらと思って」と私は言っ た。
 「ねこの販売ですか?うちは動物を飼ったことありません。それに,芝を荒らされると大変なことが起こるのです」と,今度は少し抑揚のあるしゃべり方で言った。
 「大変なこと?何が大変なのかしら」と私は少し不思議に思いながら言った。
 「きっとあなたに話してもすぐに理解できないわ。それに私いま,…...をつくっている最中なんです」
 「えっ,何をつくってるんですって」
 「もう時間がありません。待っているんです」
そう言うとインターホンの小さなスピーカーはプツッという音を立ててそのまま無音状態になった。もう一度チャイムを鳴らそうかと思ったがやめた。今日はもう彼女は出て こないだろう。

 それにしても何をつくっていたのだろう。誰が待っていたのだろう。梅雨の中休みの午前中,まだ昼には時間があるこんな平日に,いったい何をつくっていたのだろう。昼食だとしても女一人食べる分などそれほどつくる手間は掛からない。いや,誰かが待っている様子だった。彼でも遊びに来ていたのだろうか。そもそも彼女はいったい幾つなのだろう。学生?それとも主婦?親と同居しているのだろうか。はっきりしているのはねこは飼っていないことと,芝生を荒らすと大変なことが起こることだ。大変なこととは何だろう。父親が芝生を丁寧に手入れしているのに,それをねこが無造作に食べでもしたら,ねこが命まで落とすことにでもなるのだろうか。でも,彼女は私にはすぐに理解できないと言っていた。そんな疑問ばかりを残し悶々としながら歩いていると,私は家に続く道をとっくに通り過ぎていることに気づいた。そこは引っ越してから一度も来たことがない場所だった。どのくらい通り過ぎてしまったのだろうか。家からそう遠くはないはずのその場所だったが,来た道を振り返っても,どうやって来たのか,どうすれば戻れるのかまったく見当が付かなかった。でもそこは見覚えのある場所だった。私がまだ中学生の頃,わが家で飼った三匹目のねこ - 黒ねこだった - とはじめて出会った場所だ。 民家と造園の庭との車の通れない小さな路地に黒ねこと私は居たのだ。その場所がなぜかいま,目の前に現れたのだ。

ぶちねこ

...  はじめて飼ったねこは,白と黒のまだら模様のぶちねこだった。色の割合は白地をベースに黒の模様が入っていたので,八割がた白だった。耳には黒色はなく,背中の左側に四国の地図のようなまだらがあるのが特徴だった。ぶちは弟が近所で拾ってきたのだ。 最初,動物があまり好きでない父親の「すぐに捨ててきなさい」のひと言で,泣く泣く弟はぶちねこを拾ってきた場所に戻した。家からはわずか20 メートルほどの,駐車場のわきに捨てられていたのだ。まだ幼かった弟に,私が駐車場まで付き添うように母親に言われて一緒に行った。日が沈んだ駐車場には,全体の三分の一にも満たないほどの車が停まっていた。全身で泣いていることを表現している弟をよそ目に,私はぶちねこを弟が示したもと居た場所に下ろした。車止めに23と書かれたそのすぐ後ろの,あまり手入れされていない雑草の生えているところだった。ぶちねこをそこに置くと,ぶちは置かれた状態のまま動かなかった。ただ,その瞳は弟に注がれていたのが分かった。
ところがぶちねこは翌日わが家にいた。ぶちを家に入れたのは父だった。まだ子ねこだったにもかかわらず,ぶちは夜の間にわが家までやって来たのだ。朝刊を取りに外に出た父の目に前にぶちはいた。ぶちは父のあとに続き,当たり前のようにわが家に入ってきてしまったのだ。その後,幼かった弟がぶちのそばからしばらく離れなかった。結局,弟の熱心さに負けた父は,ぶちを飼うことを許したのだ。

 演技者で人間をあざむくことができるほどのぶちだったが,そんな彼にも計算外のことがある日起こった。わが家で飼ったねこの中でも,クレープを除けばぶちはもっとも定していたねこだった。怪我をしたのは足をくじいたことだけだった。病気らしい病気はほとんどしたこともないし,丸一日家をあけることなどなかったのだ。午前中に出かければ,昼前には一度帰り,夕方に用事があっても一時間以内には帰ってきた。でも,たった一度だけ一晩中帰ってこなかったことがあった。

 二月の新月の夜,ぶちは珍しく夜更けに出かけた。母は「今夜はねこの集会でもあるのかい」と言いながら,ぶちを縁側のある部屋から出した。窓を開けるとぶちは,外の寒さに気づいたのか,ほんの一瞬ためらって庭先を見つめていた。でも,結局ぶちはそのままストンと下りていった。暗やみに,ぶちの姿はその白い部分の印象をほんの少し残して消 えて行った。それが,私がぶちを見た最期の姿だった。
いつもなら,一時間もすれば帰ってくるぶちは帰ってこなかった。
私も弟も母も,そして父までもが心配して近所を探しに行った。けれども,ねこの集会 もなければ,ぶちの姿も見つけられなかった。 ...


 表札のない家のチャイムを鳴らした。しばらくすると,家の中から人の気配がした。私はゆっくり深呼吸をして,背筋を伸ばし“臨戦状態”に備えた。インターホンの小さなスピーカーから女の子の声が聞こえてきた。

表札のない家

 翌朝,いつものようにダンナが出勤すると,私はラジオのスイッチを入れ FM を聴きながら洗濯と朝食の後片付けをした。洗濯機がまだすすぎの状態のとき,二階に上がり布団をベランダに干していた。毛布を干し次に敷き布団を取りに行こうとしたときに,クレープがリビングから庭に出て行く姿に気づいた。いつもと変わらない行動だった。ゆっくりと外に出て,百日紅の方へと向かっていった。ただ一つ,違うことはのみ取り用の白い首輪をしていることだった。その首輪のネームプレートの中には,私から彼女?宛の短 い手紙が入っているのだ。少しの期待とその倍くらいの不安を抱きつつ,私はクレープ の行動に熱心だった。そんな私の心情とは裏腹に,クレープはいつものように百日紅の横を通り,塀に昇り二件先まで進んで姿を消した。

 午前中の主婦としての仕事を一通り終えると,私はラジオのスイッチを切り,自転車に乗って家を出た。もちろん目的地はあの芝生の庭の家だ。運がよければ途中でクレープの姿を確認できるかもしれないと期待したのだ。もちろん,外で飼いねこに会える可能性が低いのは,こどもの頃からねこをほとんど欠かしたことのない私には分かっていることだ った。家を出ていつもの買い物の道を,途中で左に折れ芝生の庭の家を目指した。路地を入って三軒目の玄関先にプランターの置いてある家だ。最近のプランタープランター菜園として野菜やくだものを作ることが多いようだが,芝生の庭の家のプランターにはそう いった類のものはまったく見あたらず,ゼラニュームやベゴニアなどのあでやかな花が咲いていた。私は一軒家に住んでいるけれども,それほど植物には興味がない。もともと植えてあった木には,それなりに水をやっている。雑草も生えてくれば,時々は抜いたりも している。まあ,人が遊びに来て庭を見られたときに,恥ずかしくない程度の手入れだけはしている。そんな私が見ても,この家の人間はこまめに花の面倒をみているし,庭の芝生の手入れもしっかりしていることが分かった。

 前の日と同じように,私は玄関脇の家と塀とのせまい隙間から庭の方を見た。けれどもやはりクレープの姿はもちろんのこと,庭の様子もまったく見ることができなかった。これでは何の進展も見られない。そう思うと,やはり家の人に直接聞いてみるしかない。でも,どうやって聞いたらいいだろうか。いきなりねこのことを切り出すのはどう考えても 怪しまれる。そもそも,この家にクレープが入ったという事実はまだ確認できていないのだ。家の入り口の前に自転車を止めしばらく思案していると,近所の主婦が私のことを少しいぶかしそうな目線を送りながら通り過ぎた。私はこれ以上こうやって立っているのは無理がある,そう思いその場を立ち去ろうとした。そのとき,あることに気づいた。芝生の家には表札が出ていなかったのだ。マンションなどは部屋番号だけで,郵便受けに名前が出ていないことはよくある。けれども,一軒家で表札が出ていないことは珍しい。郵便物や宅配便が届きにくいだろう。人が訪ねて来たとしても,その家を見つけるのが難しく なる。空き家には見えないその家に,表札が出ていないことはかなり不自然に思えた。その不自然さに誘われるように,私は自分でもなぜそうしたのか解らないが,芝生の家のチャイムを鳴らした。梅雨も終盤に入った,梅雨の中休みの日だった。少し蒸し暑さを感じ る,まだ昼までは少し間のある午前のことだった。

返事

 私はこれ以上嘘はつけないと思った。母が来ていなかったことを正直にダンナに話した。するとダンナは,
 「何でそんな嘘をついたんだ。先方にも失礼じゃないか」と言った。
 「ごめんなさい。どうしても今日は出かける気になれなかったの。ちょっと考え事をしていて,あまり乗り気でなかったの。それに私,あまりよく知らない人と呑むのって苦手だから」
 「だからって,ありもしない嘘をつくこと無いだろう。そういうのって俺は好きでない な」とダンナはぶっきらぼうに言った。
 「ごめんなさい」それ以外私は言えなかった。
 「まあいい。済んだことだ。でも,今度からは正直に言えよ。誘ってくれた人には俺からうまく説明するから」そう言うとダンナは寝室に向かった。
リビングに残された私とクレープは,しばらくそのままの姿勢でそこにいた。結婚して はじめてダンナに叱られた夜だった。結婚する前から私と彼はほとんどケンカをしたことが無かった。ダンナは滅多に怒らない人だ。それに反して私はすぐに感情を外に出して怒ってしまう。だからいつも一方的に私が彼にぶつかるか,今夜のようにダンナがいつも にもましてぶっきらぼうなしゃべり方で私のことを非難するのだ。そう,ダンナが怒ったときは,もし「ぶっきらぼう選手権」があればきっと優勝するであろうくらいぶっきらぼうな話し方をするのだ。

 私は気を取り直してから,首輪の返事を再び考えはじめようとした。でも,嘘をついた後悔と,ダンナに叱られたことと,首輪のことが交錯して考えがまとまらなかった。少しへこんだ。へこみながらクレープの頭を撫でていると,お腹が空いていることに気づいた。手紙のことばかり考えていたので,夕食を取り忘れていたのだ。昼食を取ってから食べて いなかったのだから,空腹になって当然だ。何の準備もしていなかったので,簡単にできるもので済ませた。買ってきておいた豆腐とニンジンを細かく切り,干し椎茸を湯で戻し,それをだし汁にしてお茶漬けを作った。干し椎茸は台所の引き出しの中にたいてい入れてある。食材がほとんど無いときに私の母がよく作ったお茶漬けだ。豆腐とニンジンの代わりにエノキや舞茸などのきのこ類や,ほうれん草や小松菜なら軽く炒って酒と醤油で味を整えてからご 飯の上に載せてもいい。要は残り物なら何でもいいのだ。食事を済ませ,ダンナが入ったあとの風呂に入った。湯船につかりながら,また首輪の返事のことを考えはじめた。私は 比較的立ち直りが早いほうなのだ。気持ちの切り替えが上手なのは,ひとつの特技と言っ ていいだろう。

 結局,返事を書いて首輪のプレートに入れることにした。これ以上首輪を外した状態でクレープを外に出しても,きっと彼女?はまた首輪を買ってつけて返すだろうと思ったのだ。いずれにせよクレープの所有権だけは宣言しようと思ったのだ。思い立つとすぐに,信用金庫でもらったメモ用紙を一枚ちぎり,首輪に入れる手紙を書いた。
「こんにちは。この子はクレープという名のメスねこです。首輪をつけてくれてありがとう。でも,この子にはノミはいません」そう記すと四つ折りにしてから首輪のプレートにそのメモを挟んだ。

短い手紙

  私はクレープを起こさないように,そっと首輪を外した。そしてネームプレートのカバーをとり,「ミケ」と書かれた紙をそこから抜いた。すると,その下には丁寧に折られた一枚の薄い紙があった。取り出す前からそこに文字の存在が確認できた。二度折られたその紙は,あぶらとり紙のように薄かった。開いてみると整った小さな字で「どうかこ の子の首輪を外さないでください。ミケをいじめないでください」と書かれていた。薄い紙に青いインクのボールペンで書かれたその字は,女性もしくは女の子が書いたもののように見えた。横書きで右上がりでも右下がりにもなっていないその字は,そのまま延長していっても永遠に水平なまま進んでいきそうなくらいまっすぐに書かれていた。三行に渡って書かれたその文字を,私は何度も何度も繰り返し読んでみた。そう,何度も何度も 読み返してみた。

 クレープがよその誰かの家に寄っているのは確かなことになった。家の中に入っていないにしても,私以外の誰かになついているのがはっきりした。私は外したクレープの首輪を戻そうか,あるいは再び首輪を外して出そうか少し迷った。でも,その晩は外したままクレープを寝かそうと思った。明日の朝,彼女が出て行くまでにどうするか決めればいいと思った。結果を先延ばしにしたのだ。なんて返事を書こう。首輪を戻したときのことを考えた。静かに眠るクレープに呟きかけた。もちろんクレープはそんな言葉などまったく耳にも入らずに眠り続けていた。私のねこだと主張しようかしら。でも,それはちょっと大人げないかもしれない。いや,もしかすると相手の方も大人かもしれない。最初から高飛車に出て,クレープを軟禁されては困る,そんな余計な心配までしてしまった。すでに守りに入っているのだから,やはり私にとってクレープは欠かせない存在になっていたのだろう。

 そんなことを考えているうちにダンナが帰ってきた。もともと呑む方ではないダンナなので,それほど酔って帰っては来なかった。ダンナは帰ると,着替えてすぐに風呂に入った。風呂に入っている間も,私はまだ首輪のプレートに入れるかもしれない返事のことば かり考えていた。ダンナが風呂から上がってきてから当然聞かれるであろうことに対する返事などまったく考えることはしていなかった。やがてダンナは風呂から出てきて,ク レープの眠っているソファの向かい側に座った。クレープの姿など,彼の目には入っていない様子だった。まあ,いつものことではあるが。ダンナはソファに座り番茶を飲 みながら
 「お母さんが来たんだろう。何か言っていたか?」と言った。 その言葉を聞いて私はハッとした。そうだった。母が来ることになっていたのだ。私は不意を突かれたことを隠すように平静を保ちながら
 「別に,特に何も言っていなかったわ。あなたは付き合いで今日は呑んでいるって言ったの」と私は返事をした。
 「そうか。俺がいなくて悪いことをしたな。それで,梅酒はどこにあるんだ」とダンナが言った。私は自分のついた嘘の準備などまったくしていなかった。さっきのように平静を保つこ とはできなかった。明らかに私はうろたえていたのだ。

嘘をついた夜

 昨日とまったく同じ種類の首輪をしてクレープは帰ってきた。のみ取り用の白い首輪だ。ネームプレートには昨日と同じ字で「ミケ」と書かれていた。それを見て私は確信した。クレープは明らかに他の家にも上がっているのだと。もし家まで上がらないにしても,どこかで私以外の誰かになついているはずだ。しっかりと固定されている首輪を見て,私はもう一度外してしまおうかとしばらく考えてみた。やはりどこの誰だか分からない人間が付けたものが家の中にあるのは,決して気持ちのいいものではない。でも,結局すぐには外さなかった。そのままの状態でダンナに見てもらいどう意見するか聞こうかと思ったのだ。大して期待はしなかったが。

 気持ちいいほどダンナはその期待を裏切ってくれたのだ。その日,珍しくダンナは外で呑むことになったのだ。彼の仕事関係の人が結婚を祝ってくれることになったのだ。私がクレープの首輪を外すべきか悩んでいたそのすぐあとに,ダンナから電話があった。結婚を祝ってくれるということだったので,私も参加しないかという電話だった。ダンナが仕事でお世話になっている人が祝ってくれるので,二人揃っていた方がいいと言っているようだった。でも私はあまり乗り気にはなれなかった。知らない人と食事をしたり呑んだりするのは苦手なのだ。実家の母が仕込みの終えた梅酒を今夜持ってきてくれるのだと嘘をついた。そう言えば,相手の人も納得するだろうと思ったのだ。ダンナは,
「そうか仕方ない。それじゃあ家を空けられないな。分かった,今日は俺だけで祝ってもらうことにするから」そう言って電話を切った。

 クレープの首輪の相談はできなくなったが,私はちょっとだけホッとした。夕食の準備を何もしていなかったし,はっきりしない首輪のことを考えると,あまり建設的な作業をする気にはなれなかったのだ。でも,ダンナに嘘をついてしまったことは後味が悪かった。結婚してはじめて嘘をついてしまったのだ。

 ソファで眠っているクレープに添い寝をするように私も彼女の隣で横になった。クレープは一度だけ目を開け私の姿を確認すると再び眠った。私は彼女の頭を撫でるふりをしながら,首にしっかりかけられた白いのみ取り用の首輪を見ていた。首輪全体ではなく中央に下がっているネームプレートばかりを見ていたのだ。どうにも「ミケ」という名前を私には受け入れられるような寛容さはなかった。ダンナが帰ってくる前に外してしまおうかしら,そう思い一度は首輪に手を掛けた。するとクレープがまるでその動作を拒否するかのように寝返りを打ったのだ。寝返りを打つことにより「ミケ」と書かれたネームプレートは,私の位置から見ることができなくなった。そんなこと気にするなよ,と言わんばかりにクレープは静かに眠っていた。何だか私の心を見透かされた気分になってクレープを憎らしく思った。

 結局,ダンナが帰るまで私は夕食もとらず,普段はほとんど聞くことのない夜のFMを聴いていた。昼のFMと比べると,夜のDJは日本語と英語を器用に使い分けてプログラムを続けていた。ラジオの音にクレープは時々薄い耳たぶをピクリと動かしながら反応しつつも眠り続けた。やがて私の目には再びネームプレートが映った。でも,今度は新しい発見があった。よく見るとプレートには「ミケ」と書かれた紙の下に,何かが記されたもう一枚の紙があったのだ。