迷い道

 「どちら様でしょうか」と女の子は,会社で研修をきちんと受けたような感じの,少し線の細い声で言った。
 「あの~,ちょっとお話ししたいことがあるんですが」と,私は彼女の問に答えず,いきなり本題に入ろうとした。
 「どういったご用件でしょうか」と彼女はまたもや普段練習しているようなしゃべり方で言った。
 「庭の芝のこととねこのことです」
 「芝生?......ねこ?」と,彼女は二つの単語の語尾を上げるような感じで,インターホンから返事をした。その声から私は彼女がどんな容姿か想像してみた。いま,家の中で少し緊張しながら真っ直ぐ立ち,インターホン越しに話している彼女の姿を想像してみた。そう,私には少し余裕が出てきたのだ。
 「ねこが胸焼けしたときに草を食べるのは知ってるかしら。お宅の庭に立派な芝生が生えているので,もしかしてねこが遊びに来るんじゃないかしらと思って」と私は言っ た。
 「ねこの販売ですか?うちは動物を飼ったことありません。それに,芝を荒らされると大変なことが起こるのです」と,今度は少し抑揚のあるしゃべり方で言った。
 「大変なこと?何が大変なのかしら」と私は少し不思議に思いながら言った。
 「きっとあなたに話してもすぐに理解できないわ。それに私いま,…...をつくっている最中なんです」
 「えっ,何をつくってるんですって」
 「もう時間がありません。待っているんです」
そう言うとインターホンの小さなスピーカーはプツッという音を立ててそのまま無音状態になった。もう一度チャイムを鳴らそうかと思ったがやめた。今日はもう彼女は出て こないだろう。

 それにしても何をつくっていたのだろう。誰が待っていたのだろう。梅雨の中休みの午前中,まだ昼には時間があるこんな平日に,いったい何をつくっていたのだろう。昼食だとしても女一人食べる分などそれほどつくる手間は掛からない。いや,誰かが待っている様子だった。彼でも遊びに来ていたのだろうか。そもそも彼女はいったい幾つなのだろう。学生?それとも主婦?親と同居しているのだろうか。はっきりしているのはねこは飼っていないことと,芝生を荒らすと大変なことが起こることだ。大変なこととは何だろう。父親が芝生を丁寧に手入れしているのに,それをねこが無造作に食べでもしたら,ねこが命まで落とすことにでもなるのだろうか。でも,彼女は私にはすぐに理解できないと言っていた。そんな疑問ばかりを残し悶々としながら歩いていると,私は家に続く道をとっくに通り過ぎていることに気づいた。そこは引っ越してから一度も来たことがない場所だった。どのくらい通り過ぎてしまったのだろうか。家からそう遠くはないはずのその場所だったが,来た道を振り返っても,どうやって来たのか,どうすれば戻れるのかまったく見当が付かなかった。でもそこは見覚えのある場所だった。私がまだ中学生の頃,わが家で飼った三匹目のねこ - 黒ねこだった - とはじめて出会った場所だ。 民家と造園の庭との車の通れない小さな路地に黒ねこと私は居たのだ。その場所がなぜかいま,目の前に現れたのだ。