芝生の庭

 私は買い物をやめクレープが下りていった家の道に面しているところを探した。20メートルほどわが家の方に戻ったところに,その家に通じる道があった。ワンボックスカーなら二台は楽に通れるくらいの道幅だった。平坦なその道を三軒ほど進んだところの家の前で私は自転車を止めた。裏から見たときは二件目だと思ったのだが,道なりに進むとどうやら三軒目の家が,クレープが塀から下りた家のようだ。そこには小さな門があり六段ほどの石の階段を上ったところに玄関がある。正面から見た感じではそれほど大きな家ではなかったが,玄関まわりはきちんと掃除がされ,ドアの脇にはいくつかのプランターが置かれそこには花や草が茂っていた。庭の芝のことや玄関のこうしたものを見ると,ガーデニングが趣味なのだろうと勝手に想像した。さすがに何の用事もないのにチャイムを鳴らす勇気はなかった。芝生の家の人が出てきたときに,
 「うちのねこが今さっき,お宅の庭に下りたんです」
などと言ったら,単なる不審者か訪問販売をする営業のキッカケに捉えられかねない。自転車から降りた私は,玄関脇の塀と家との隙間から庭の方を覗いてみた。けれども,そこにクレープの姿はおろか,庭の芝生さえ確認することはできなかった。それ以上そこにいてもそれこそ不審者に間違われるかもしれないと思い,私はその場を去った。

 買い物を終え,家に帰ってもまだクレープの姿はなかった。袋から買ってきた魚や肉,野菜を取り出し冷蔵庫に収めた。すぐに夕飯の準備に取り掛かろうとしたのだが,何だかそんな気分になれなかった。クレープの行方が気になったのだ。帰ってこないことを心配したわけではない。根拠はなかったのだが,クレープは夜までには帰ってくるだろうと思っていた。あの芝生の家にクレープは本当に行ったのかしら。それとも単に通り道に使っただけなのかしら。そして首輪をつけたのは芝生の庭の家の住人なのかしら。そんなことを考えてみた。

 ねこは芝生がそれほど好きではないと思う。身を隠すところもないし,梅雨時は湿っていて寝転がるにも気持ち悪いだろう。さらに時期によっては露が付き,ねこにとっては決して気持ちの良いものではないはず。胸焼けがしたときに草をかじることはあるが,芝よりももっと別の種類の草を食べると思う。この時期の芝は若く,アクが強いのでそれこそ胸焼けでも起こしかねない。人によっては胸焼け用のねこ草を買ってくることもあるようだが,私の母も私もそういった種類のものは買った試しがなかった。庭に生えている草を勝手に食べている姿を見ていたので,わざわざお金を出してまでそろえるものと考えていなかったのだ。

 いつまでもクレープのことを考えているわけにも行かなかった。ダンナが帰るまでにやらなければならないことはいくつもある。私は気持ちを切り替えて,まず買ってきたものを冷蔵庫に仕舞い洗濯物を取り込んだ。いつもだとすぐにアイロン掛けが必要な服にはアイロンを掛け,下着類や靴下はたたんでタンスに仕舞う。けれどもその日はクレープを追い,帰ってからしばらく彼女のことを考えていたため時間がなくなった。すぐに夕食の準備に取り掛からなければならなかった。こんなことは結婚して初めてのことだった。ダンナが帰るまでには,食事だけはちゃんと準備したかったのだ。でも,そのことさえクレープは妨げたのだ。そう,彼女は私が夕食の準備をし始めてすぐに帰ってきたのだ。首輪をして。