嘘をついた夜

 昨日とまったく同じ種類の首輪をしてクレープは帰ってきた。のみ取り用の白い首輪だ。ネームプレートには昨日と同じ字で「ミケ」と書かれていた。それを見て私は確信した。クレープは明らかに他の家にも上がっているのだと。もし家まで上がらないにしても,どこかで私以外の誰かになついているはずだ。しっかりと固定されている首輪を見て,私はもう一度外してしまおうかとしばらく考えてみた。やはりどこの誰だか分からない人間が付けたものが家の中にあるのは,決して気持ちのいいものではない。でも,結局すぐには外さなかった。そのままの状態でダンナに見てもらいどう意見するか聞こうかと思ったのだ。大して期待はしなかったが。

 気持ちいいほどダンナはその期待を裏切ってくれたのだ。その日,珍しくダンナは外で呑むことになったのだ。彼の仕事関係の人が結婚を祝ってくれることになったのだ。私がクレープの首輪を外すべきか悩んでいたそのすぐあとに,ダンナから電話があった。結婚を祝ってくれるということだったので,私も参加しないかという電話だった。ダンナが仕事でお世話になっている人が祝ってくれるので,二人揃っていた方がいいと言っているようだった。でも私はあまり乗り気にはなれなかった。知らない人と食事をしたり呑んだりするのは苦手なのだ。実家の母が仕込みの終えた梅酒を今夜持ってきてくれるのだと嘘をついた。そう言えば,相手の人も納得するだろうと思ったのだ。ダンナは,
「そうか仕方ない。それじゃあ家を空けられないな。分かった,今日は俺だけで祝ってもらうことにするから」そう言って電話を切った。

 クレープの首輪の相談はできなくなったが,私はちょっとだけホッとした。夕食の準備を何もしていなかったし,はっきりしない首輪のことを考えると,あまり建設的な作業をする気にはなれなかったのだ。でも,ダンナに嘘をついてしまったことは後味が悪かった。結婚してはじめて嘘をついてしまったのだ。

 ソファで眠っているクレープに添い寝をするように私も彼女の隣で横になった。クレープは一度だけ目を開け私の姿を確認すると再び眠った。私は彼女の頭を撫でるふりをしながら,首にしっかりかけられた白いのみ取り用の首輪を見ていた。首輪全体ではなく中央に下がっているネームプレートばかりを見ていたのだ。どうにも「ミケ」という名前を私には受け入れられるような寛容さはなかった。ダンナが帰ってくる前に外してしまおうかしら,そう思い一度は首輪に手を掛けた。するとクレープがまるでその動作を拒否するかのように寝返りを打ったのだ。寝返りを打つことにより「ミケ」と書かれたネームプレートは,私の位置から見ることができなくなった。そんなこと気にするなよ,と言わんばかりにクレープは静かに眠っていた。何だか私の心を見透かされた気分になってクレープを憎らしく思った。

 結局,ダンナが帰るまで私は夕食もとらず,普段はほとんど聞くことのない夜のFMを聴いていた。昼のFMと比べると,夜のDJは日本語と英語を器用に使い分けてプログラムを続けていた。ラジオの音にクレープは時々薄い耳たぶをピクリと動かしながら反応しつつも眠り続けた。やがて私の目には再びネームプレートが映った。でも,今度は新しい発見があった。よく見るとプレートには「ミケ」と書かれた紙の下に,何かが記されたもう一枚の紙があったのだ。