はじまり

 ある日のこと,ふと気づいたことがあった。何かが違う。いつも見慣れた彼女の姿ではなかった。その時すぐには気づかなかったのだが,彼女は確かにいつもと違っていた。 まるでどこかの雑誌の巻末にでもある間違い探しのようだった。右の耳はいつもと同じだし,しっぽの長さだって変わらない。三毛猫特有の配色も前に撮ってあった写真と比べようかと思ったものの,さすがにそこは自分の記憶を信じた。彼女は完璧だったし私も完璧だった。けれども,たった一点違いがあった。首輪をしていたのだ。首輪?最初に疑ったのはダンナだった。彼女に触れることのできる唯一の人間は私以外にはダンナしか考えられなかったからだ。ダンナとクレープの相性はそれほど悪くなかった。少なくとも私がこどもの頃のぶちと父親との関係よりはスムーズにことは運んでいただろう。

 首輪には「ミケ」と書かれていた。三毛猫のミケ!そのありきたりの名前の付け方に,唖然とする以前に目の前にいたクレープが情けなく思えた。首輪を付けられるだけではなく,こんな名前をつけられて,おまえのプライドはどこにあるのか!と声に出さないまでも,目でそのことを訴えた。当然のことだけれども,そんなこと気にするはずもない様子でクレープは涼しい顔で毛繕いをしていた。首輪はいわゆるのみ取り用の白色のものだった。名前を入れられるように,下部にはネームを入れる小さい名入れ用のケースがついていた。すぐに外そうかと思ったのだが,ダンナが帰ってから理由を聞こうかと思いそのままにしておいた。私は横に寝転がり「ミケ」と書かれた部分をじっと見つめていた。それにしてもまったくセンスのない名前だと思った。まあ,私の実家で最初に飼った「ぶち」もそれと同じレベルかもしれないが,あれは弟がこどもの頃に付けた名前だ。それと同程度の名前しか付けられないダンナは,やはりこども並のセンスしか持ち合わせていないのだ。

 ダンナが帰宅し風呂に入り夕飯が済んで一段落してから,
 「ねえ,クレープを見て何か気づかない」と私が切り出した。
 「何が。いつもと同じじゃないか」と,あまり関心がないような返事だった。
 「何であんなもの付けたのよ。特にノミが出たわけでもないのに」と強めに言った。
 「あんなものって何だよ」とダンナは怪訝そうに言うと,
 「あなたが付けたんでしょう?首輪。しかもセンスのかけらもない名前を付けて。何でミケなの。彼女にはちゃんとしたクレープという名前を付けているじゃない」とちょっと興奮して私が言った。
 ダンナは夏の網戸に足が引っかかり,外れなくなったカナブンを気の毒そうな目で見るように私に視線を向け「なんのことだ,いったい」と言った。
 「だって,あの首輪付けたのあなたでしょう?」と,ちょっと不安になりながら聞いた。 どうにも会話がかみ合わなかった。そんなことはよくあることだったが,ねこに関しては今までそんなことはなかった。私はすぐにクレープを寝室に連れてきた。
 「ねえ,よく見て。いつもと違うでしょう」
 「ああ,確かに首輪を付けているな」とダンナは初めてクレープのことをまともに見て言った。ダンナの様子からすると彼は首輪のことを知らなかった。だとしたら,いったい 誰が首輪を付けたの?