クレープとダンナ

 ダンナは帰宅するとすぐに部屋に行き,パジャマに着替えてから風呂に入る。それから食事をする。冬場は毎日ではないが,暑い時期は必ず風呂に入る。仕事から帰ると仕事 の続きのように,日々同じように行動する。

 でも,この日は少し手順が違った。着替えるところまではいつも通りだった。浴室へ向かうにはリビングを通らなければならない。浴室まであと四歩のところで立ち止まっ た。ソファで眠っている三毛猫が目に入ったのだ。するとダンナは,
「何だ,これは」と,思いがけない雨が降ったことに不満なような感じで言った。
「何言っているの。これはねこっていうのよ。ねこを見たことないの」と,私は今朝の 仕返しをしてやった。ダンナはちょっとムッとした表情をして,
「そんなこと分かってるよ。結構根に持つ方だな。今朝庭に居たねこだろう」と言った。
「そうよ」と素っ気なく返事をした。
「何だ。結局この家でもねこを飼うことにしたのか。あれほど『ねこはしばらくいらな いわ』とか言ってたくせに」と,私のしゃべり方をまねするように言った。
私は少しムッとしながら
「飼うつもりなんかないわよ。勝手に家の中に入っただけ」と,ちょっとだけ嘘をついた。そう,彼女は私が抱いて入れたのだ。
「家に居られるのは今夜だけよ」と,私は続けた。
「果たしてそれはどうかな。まあ,俺はどっちでも構わないけど」そう言うと,ダンナは残りの四歩を進んで浴室のドアを開けた。シャクな話だが,結局のところ彼の予測は当たった。

 ダンナが風呂に入っている間,私は用意してあった夕食の最後の仕上げに取り掛かった。 ダンナが風呂から上がる頃合いを見計らって,食事ができるようにしたのだ。私だって 新婚の頃はしっかりと主婦の仕事をこなしていたのだ。もちろん,今の方がもっとしっ かりやれる自信はあるけれども,新婚の頃と今とでは気合の入れ方が違ったのだ。ダンナが風呂から上がり食卓に着くと,私も一緒に少し遅い夕食の席に着いた。仕事 でよほど遅くならない限り,私たちは夕食を一緒に取った。朝食も一緒なのだ。それは今も変わらない。

 私たちが食事をしている間,三毛の子ねこは腹部で呼吸をしているのを私たちに知らせているかのように,よく眠っていた。食器の音や私たちの会話に少し反応するように,時 々薄っぺらい耳たぶを動かす以外は,ぬいぐるみのように静かにしていた。食事が終わると,ダンナはねこの存在などまるでないかのようにソファの前を通り過ぎ書斎へと向かった。どうせまた蟻の本を読むか,ネットで蟻仲間と連絡でも取り合うに決まっている。私は後片付けを済ますと,子ねこの眠っているソファに座り,彼女の頭を 撫で,上下している腹のあたりの毛の間に指を通してみた。野良ねことは思えない毛並み に,やはりこの子はどこかで飼われているのだろう,と思った。明日,この子は我が家から出ていったら再び戻るのかしら。そう思うとちょっと切なくなった。