百日紅がお気に入り

 木陰に身を置いていた三毛猫は,私が近づいても逃げる気配さえ見せなかった。私のことが視界に入っていないかのように,その場所にたたずんでいた。私が今までに飼ったねこの中で,もっとも小さなねこであることが見てすぐに分かった。小さいと言うよりは,おそらく生まれてまだ数週間しか経っていなかったと思う。私が「チチチ」と,舌で音を出すと,初めて彼女は私のことを見た。少し距離があったし,昼前だったので黒目は縦に細かったが,彼女の瞳の中には私の姿が映っていた。三毛猫は前足を間接で折り曲げ,胸の内側に入れるいわゆるねこ座りで,百日紅の根の土の上に居た。私は引っかかれないように,少し警戒しながらそっと右手を差し出してみた。そう,ねこは不用意に手を出すと,目にもとまらぬ速さで鋭い爪を出すのだ。ねこにとってはじゃれているつもりでも,時として驚くほど血が出たこともあった。でも,そんな警戒は必要なかった。子ねこはおとなしく私の指で,額を撫でられることを許してくれた。結婚して実家を出てからねこに触れることのなかった私は,久しぶりのねこのなめらかな毛の感触がちょっとだけ嬉しかった。懐かしいものに触れた思いがした。額から耳の裏,さらにはあごへと私の指と手のひらは,三毛猫の“うれしい”部分へと移動していった。すると突然,家の中からブザーの音がしてきた。洗濯機が洗濯を終了したことを告げたのだ。私は三毛猫に添えていた手を引き,一瞬どうしようかと考えた末,家の中に戻った。天気がいいとはいえ,そろそろ昼近くになっていたので,洗濯物を干さないといけなかった。

洗濯物を干し終えて,百日紅の方を見ると,三毛猫は居なくなっていた。おそらく私がブザーに反応して,急に立ち上がったときに子ねこも去ったのだろう。これも私の経験なのだが,ねこは人間が急に立ち上がったり,走ったりすると反射的に逃げてしまうのだ。確かに,ねこでなくても目の前の自分より大きい生き物が急に動けば,身を低くして次の行動に移すことだろう。子ねこが去ったあとを見て,少しだけ残念に思ったけれども,居なくなってホッとした気持ちの方が強かった。「まだねこはいいや」そう呟いてから,昼食の準備に取り掛かった。

 午後には干していた布団と洗濯物を取り込んだ。取り込みながら何度か百日紅の方を見た。でも,そこにはねこの姿はなかった。やはり気にしているのだ。結婚する前,実家では家猫が居たにもかかわらず,頻繁によそのねこや野良ねこが,ブロック塀の上を歩いていた。ねこの通り道になっていたのだ。ねこにだって縄張りはあるのだろうが,住んでいる家と庭との関連性はそれほど大きくなかったようだ。もっとも,飼っていたねこによって,庭にやってきたよそねこがいた時期もあれば,決して寄りつくことのなかった頃もあった。実家で飼った三匹目のクロねこはかなり性格のきついねこで,近所では負け知らずだった。細身でどちらかというと小柄なねこだったが,いつも凛として他のねこを寄せ付けないオーラを発していた。私でさえ近寄りがたい雰囲気を漂わせていたときもあり,そんなクロとは私は気持ちを通じ合わせたとは思えなかった。彼女に私の心を見抜かれていたように感じていた。

 夕方になり,私は買い物に出かけた。総菜売り場から,魚などの生鮮売り場,最後に野菜売り場を通るのがいつもの私の買い物の順番だ。けれども,その日はちょっと“寄り道”をした。私は無意識のうちにペットフード売り場で立ちつくしていたのだ。