彼女の部屋

 ようやく食事を終えたあと,しばらくはソファに寄りかかりぼんやりしていた。いつもならばすぐ後片付けをするのだが,そんな気になれなかった。ダンナはすでに書斎に戻り再び蟻の図鑑に顔を埋めている頃だろう。私は半分も食べられなかった皿に残っている夕食の残骸越しに暗い庭をずっと睨んでいた。クレープが再びそこに姿を現さないかしらと待っていたのだ。けれどもその期待は打ち砕かれた。いくら待っても帰ってくる気配がなかった。さすがにいつまでもテーブルの片付けをしないわけにもいかない。重い腰と気持ちを精一杯の気力で立ち上げた。台所に食器を運び,自分の残したものにラップを掛けた。おもむろに開けた冷蔵庫のドアに右手を掛けてしばらくそのままの姿勢を保った。やがてドアが閉まっていないというピッピッピッと高い警告音が鳴り始めドアを閉めた。食器を洗い水切りかごに食器を立てかけた。やるべき事を済ませると,再びソファに戻り横になった。いつまでも続く暗い庭の闇は,私に絶望感を与えるばかりだった。暖かくなってきたとはいえ,夜はそれなりに冷え込む。それにいつまでも窓を開けっぱなしにするのは不用心だ。それでも動かずにいる私にダンナが声を掛けた。  「いつまでそうしているんだ。窓を閉めて風呂に入ったらどうなんだ」そう言われて私はようやく次の行動に移すことが出来た。

 湯船に浸かりながらぼんやり窓の外を眺めた。磨りガラスの向こう側は当然のことながら何も見えない。クレープ“今”を想像してみた。彼女の部屋で私の心配などよそに眠っているのだろうか。彼女の部屋はどんなだろうか。おそらく洋室だろう。小さなベッドがあり,部屋は女の子の割には派手さがなく,小さな窓にはベージュ系のカーテンがある。ぬいぐるみはなく,壁には海外で買ったであろう木の枠にはめられた水彩画がある。ねこの絵ではなく,どこか西欧の街並みの絵だ。フローリングの床には小さなカーペットが敷かれ,そこにあるクッションの上でクレープは眠っている。そもそも彼女は一人で住んでいるのだろうか。ほかにも誰かいる様子だった。一軒家に若い女性一人で住んでいるのはちょっと想像しにくい。芝生の手入れの良さからも,きっと親と同居しているのだろう。芝生を荒らすと大変なことになりかねないような親とはどんな人なのだろう。そんな勝手な想像をしているうちに意識が遠くなり,湯船の中に顔の半分が浸かってしまっていた。私はその時はじめて自分がいま浴槽に入っていることに気づいた。溺れそうになった私は慌てて立ち上がり乱れた呼吸を整えようとした。

 風呂から上がるとさっきよりもさらに疲れが出てしまい,部屋に戻る前にソファにもたれかかりそのまま寝てしまった。上気した私の様子を見たダンナが「なんでそんな長湯したんだ」とあきれた声で言ったが,それに応えるほどの余裕はなかった。そもそもなぜ彼はリビングにいたのだろう。書斎で蟻の図鑑に熱心だったのではなかろうか。でも,その時の私にはそれを模索する気力がなかったのは言うまでもない。どこの誰かも分からない人の部屋の風景など思い描いていてのぼせるなど,何とも情けない話だ。意識を失ってからどれくらい立ったのだろうか。足下に何かの重みを感じた。それほど重くはないがある程度の重量があり柔らかいもの。そう,この重みには記憶がある。ねこが飼い主の上に乗るときのあれだ。うつろな頭を持ち上げるとそこにはクレープが眠っていた。お腹で呼吸していることを知らせながら。私は小さな声で「クレープ」と呼んだが,彼女は眠り続けたままだった。

無彩色の世界

 月明かりの無い夜にクレープが出掛けてからしばらくしてダンナは蟻の巣穴の観察を終え家に入りそのまま書斎へ直行した。蟻の行動を見ていて何かを思い出したかのようだった。「女王蟻の生態が…」と呟いていた。女王蟻?女王蜂はよく聞くけど,蟻にも女王が居るのかしら?私の蟻に関する知識はそんなものしか無かった。ダンナが居なくなった庭を見ると,暗闇の中には何の色彩も無いように見えた。そこにはすでに生命の営みはなく,無機物しか存在していないように感じた。当然樹木もあれば虫も居る。蟻だって地面の中でうごめいているはずだ。もしかしたらどこかのねこが息を潜めて隠れているかもしれない。でもその時の私には,そこに生命が存在していることが想像できなかったのだ。庭をじっと見つめていると無彩色の世界に引きずり込まれそうになり急に恐くなった。子どもが森を見て怖がるように恐怖心が私の体を包み込んだのだ。その瞬間,クレープが二度と戻ってこないのではないかともうひとつの私が自らに語りかけていた。もうそれ以上その場に居ることが私には耐えられなくなった。

 私は気持ちが昂ぶらないように,なるべく平常心を保ちながら静かに立ち上がった。そして準備してあった夕食を静かにテーブルに運んだ。そうでもしないと気が紛らわせそうにもなかった。そして一人で居るのが恐かった。せめてダンナが同じ食卓にいてくれたら,それだけでも平静は取り戻せそうだった。書斎に行ったダンナに食事の準備が出来たことを伝えにいった。ダンナは分厚い図鑑のような蟻の本を広げ,顔を埋めるように見入っていた。最初は私の声にまったく反応しなかった。もう一度ご飯が出来たことを言ったがやはり無反応だった。夢中になるとまったく外の声が聞こえなくなる。今に始まったことではない。ドアを叩いて少し強めに声を発した。実際には発した私自身が自分の声に驚いてしまった。何に怯えてるの?ようやく図鑑から目を離したダンナはゆるりと立ち上がり食卓へと向かった。

 食事をしていても私はクレープのことが気になっていた。いつもなら外に出たことなど気にもせずにいたのに。忘れた頃に帰ってくるのだ。けれども今日はクレープが出て行ったあとのいつもとは違った空間に戸惑いを感じていたのだ。いや,感じ取ってしまったのだ。まるでクレープが通り抜けていったあとには,別の次元の世界が形成されたように感じた。それは私の作り上げた架空の世界かもしれない。けれども本当に存在する空間かもしれないのだ。私は箸を持ったまま目の前の自分で作った食事にまったく手をつけなかった。怪訝に思ったダンナが「食欲ないのか?」と聞いてきた。 「そんなことないわ。ちょっと考え事してたの」と誤魔化した。

 クレープは今頃,あの芝生の庭の家に向かったのだろうか。“彼女”は今度はどんな手紙をクレープに託すだろうか。でもそれはあくまでもクレープが帰ってくることが前提となる。深い闇に消えていったクレープは私と同じ世界に存在してくれているのだろうか。それともクレープにしか通り抜けることが出来ない別の次元の世界で今は過ごしているのだろうか。テーブルの上の私の皿からは一向に料理が減る気配がなかった。

新月の夜のお出かけ

  ダンナが帰ってきた。昨晩のこともあり,私はちょっとバツが悪かった。でも,ダンナはそんなことはまったく気にしている素振りも見せなかった。いや,表現が適切でない。ダンナの名誉のために言えば,彼はまったく前夜のことなど気にしていなかったのだ。ダンナは「ぶっきらぼう選手権」で優勝することが容易なこと以上に,「あとぐされなしカップ」では間違いなく三連覇を果たすことだろう。なぜそう言いきれるかと言えば,ダンナが小学四年生のときの冬休みに起こった事件があった。彼がやっと字を書けるようになりはじめた幼稚園の幼少組から書き始め,一日たりとも欠かしたことのなかった絵日記を,彼の母親はことなげもなく燃やしてしまったのだ。ダンナの母が物置の掃除をしていたとき,不要となった書類を燃やそうとした。彼女は段ボール箱に入っていたその中身を確認することもなく,台所からマッチを持ってきて,勢いよく絵日記が入っていた箱に火をつけた。ほどよく油が染みついていたダンナの絵日記は,まるで理科の実験の炎色反応の見本のように,綺麗な黄色や緑,橙色を示しながらすべてが灰となった。さすがのダンナもそのことを知ったあと,10秒間黙っていたらしい。けれどもその事実を知らされたあと14秒後には「燃えたか」と言って灰を踏んづけた。断っておくけれどもこれは私の脚色など入れてない。結婚する前にダンナの母親,すなわち私の義理の母から聞いた話だ。

 帰宅したダンナは,いつものように風呂場に向かった。その後食卓に着いた。するとダンナは 「今日はもしかして…」と言った。
「もしかして…?何だったかしら」
ダンナの言葉に,私はいつもより少しだけ敏感になっていた。
「外が暗くないか」
「そうね。夜だからじゃない」と私が言うと,その言葉を無視するかのように
新月だな」とポツリと言った。
新月?確かに外は月の明かりがまったく無い暗い夜だった。
「ちょっと様子を見なければ」と言って,ダンナは懐中電灯を持ってリビングの窓を開け庭に出た。庭に続く窓を大きく開け放ち,サンダルを履いてダンナは蟻のすみかへと向かった。すでにダンナの耳には私の声などまったく届かない状況となっていた。

 ダンナが窓を開けたことが合図のように,ソファで眠っていたクレープは起き上がり,彼の後を追うように外に出た。夜に出かけるのは珍しいな,と思いつつクレープが外に出る瞬間に,同じように冬の夜に外に出て,そのまま二度と帰ってこなかったぶちねこのことがほんの一瞬私の頭をよぎった。けれどもそんな私の心配をよそにクレープは何の戸惑いもなく外に出た。珍しく彼女はダンナの足に頭を擦りつけてからいつものように百日紅の横を通り抜けていった。ダンナはクレープの行動にはまったく気づかずに,蟻の巣穴に熱心だった。クレープは真っ直ぐ彼女の家に行くのかしら?そんな思いを抱きつつ,暗やみに中に消えたクレープの残像をしばらく見ていた。

しっぽの振り方とクレープの機嫌

 後味の悪い夢から覚めたとき,日はまだ十分高い位置にあった。夢と湿気のせいで私は汗をかいていた。すぐに時計を見る気にはなれなかったが,おおよその時間の見当はついた。上半身だけ起き上がり,しばらくはぼんやりしていた。そして思い出したように私は自分の右足に目をやった。もちろん私の右足は無事でそこに指はちゃんとついていた。私はホッとしながら,はじめて時計を見ることができた。けれども時計を見てもその時間が自分の中で認識できなかった。私の網膜にはしっかりと時計盤が焼き付いているはずなのに,それを脳まで伝達することができなかったのだ。こんな状態ではいけない,と思い私は洗面所に行き冷たい水で顔を洗った。そうしてやっと私は現実の世界に戻れた気がした。洗面所に置いてあるデジタル時計は1時32分を表示していた。その時間は,さっき私がおぼろげに思った時間と5分と違っていなかった。私は昔から,時計のない場所にいてもおおよその時刻を言い当てることができた。それは今日のように一度眠ってしまっても,何の問題もなく言い当てられるのだ。

 リビングに戻りソファに目をやると,そこにはまだクレープは眠っていた。さっき見たときと,頭の位置は時計回りに150度ほど庭の方に向き直っていた。もちろん首輪はつけたまま眠っている。私はクレープの前まで行き,さっきと同じように床に座り間近でクレープを,いやクレープのしている首輪をじっと見つめてみた。首輪のプレートには私が書いた返事が入ったままだった。私は自分が書いた手紙が気に掛かり,クレープが起きないようにそっとプレートから手紙を引き出した。そうして最初に手紙を書いたときと同じように,自分の書いた文字を何度も読み返してみた。「大きな字」と呟いてみた。彼女が書いた手紙の文字と比べると,私の字はまるで拡大コピーをしたかのような字の大きさだった。これじゃあ男と間違えられるかしら,そんな懸念がはしった。でもこれが私の字だし,あえて字を作る必要もないだろう。そんなことをしても,ずっと続くはずもないだろうし。それに昼日中にこんなのんびりした手紙を大の大人の男がするなど考えつかないだろう。

 結局,手紙は直さずにそのままクレープの首輪に戻した。手紙を出して戻すまで,クレープはずっと眠り続けた。そんな姿を見て私はクレープに向かって,「お前は本当に野良猫だったのか?こんなにも人間に対して無警戒で大丈夫か。外には怖い人間だっているかもしれないんだぞ」と言った。 言い終わるとクレープははじめてしっぽで反応した。左右に大きく振ったのだ。これは機嫌が悪い証拠だ。眠っているところをさんざん邪魔され,さすがにもう放っておいてくれ,と言わんばかりの勢いだ。しっぽの振り方でねこの気分が判ることなど,こどもの頃から何匹もねこと付きあってきた私には簡単なことだった。クレープがしっぽを二往復半したところで私は彼女の前から立ち上がり,キッチンに向かった。再びラジオのスイッチを入れ,FMを聴きながら後片付けのしてなかった午前中の皿を洗い始めた。洗い物をしながら,クレープに気づかれないように何度かそっとソファの方に目を向けたのだが,クレープに動く気配はなかった。早く出かけて手紙を届けてくれないだろうかと思った。私の手紙を見て彼女はどんな返事をくれるのだろう。そんな私の思いをよそに,その日のクレープは夜まで出かけることはなかった。そう,夜までは。

黒ねこの夢

 「こんにちは。返事ありがとう。この子はうちで飼っているねこです。クレープという名前は私がつけました。あなたも同じように呼んでくれると嬉しいです。クレープは私たちが引っ越してきて間もなくやって来ました。その時はまだ,子ねこでした。だからこの子はまだ一歳にもなっていません」
 メモ用紙だったので,それだけ書くといっぱいになってしまった。私の字は女としては比較的大きい方なのだ。私は自分の書いたその短い手紙を二度ほど読み返し,問題がないことを確かめた。自分のことはほとんど記さなかったが,相手もクレープのことが気掛かりだろうからそれで構わないだろう。でもその反面,私は相手がどんな人物なのか知りたかった。クレープが運んだ手紙には「わたし」と書かれていた。文体や字の感じからほぼ女性であることは間違いない。私はクレープがもう一つ住み家を持っていることよりも,相手の素性の方に関心が移っていた。でも,私からの最初の返事にはそのことには触れなかった。いきなりねこのことよりも相手のことを訊くのは不自然だし礼儀に反すると思ったからだ。いずれ,向こうからも訊いてくるかも知れない。

 手紙を二度半分に折り,クレープの首輪のプレートに彼女が起きないようにそっと滑り込ませた。手紙をプレートに入れると,私はソファに腕を乗せ,その上にあごを置く格好で床に直に座りしばらくクレープを眺めていた。
「お前は二また生活をしているのか?かわいい顔をしてやってくれるね~。どんな人にかわいがられているんだ?」
そう言うと,クレープは耳を二度ピクピクと動かして“返事”をした。ねこは寝ているときに音がすると,目を開けずにこうして耳を動かして様子を伺うのだ。ゆっくり呼吸していることを教えているかのように,クレープは柔らかいお腹を上下に動かし続けていた。初めて長いと感じた午前が終わることを,つけっぱなしにしていたFMが知らせた。私はおもむろにソファから立ち上がり,ラジオのスイッチを切り二階に上がった。少し疲れて眠気が襲ったのだ。

 夢を見た。黒ねこの夢だ。三匹目のねこだ。高校生の夏休み,部活を終えた私は家に帰ると冷蔵庫を開けてすぐに冷えたオレンジジュースをコップに注いで一気に飲み干した。飲み干すと黒ねこが私の視界に入った。彼女はテーブルの下に,体を広げられるだけ広げて眠っていた。暑い夏には面積を最大にする形で,体を床や軒下の屋根につけるようにして体温を調節する。私は少し面白がって黒ねこにちょっかいを出した。靴下を脱いで素足で寝ている黒ねこのお腹を軽く踏んづけた。最初彼女は無視していたのだが,私がしつこくしかも徐々に力を入れていったら,急に起き出して爪で私の右足の小指の付け根を引っ掻いた。その爪がくい込み取れなくなった。私は慌てて「お母さん!お母さん!」と助けを求めた。けれども母は姿を現さなかった。右足を見るとそこに黒ねこは居なく,彼女の爪だけが私の肉にくい込んだまま左右に動いていた。私は泣きながらそれを振り落とそうとしたけれども,振れば振るほど爪はさらにくい込み,ついには反対側から飛び出してきた。このままでは小指がちぎれてしまう。そう思い私はしゃがんで爪を抜こうとした。しゃがむとそれまで居なくなっていた黒ねこがテーブルの脚のところに座っていた。彼女の片足からは爪が抜け,そこには私の小指が生えていた。私は気が動転して立ち上がろうとすると,思いっきり頭をテーブルの天井にぶつけた。黒ねこはそれを見ると満足そうに私の小指をつけたまま外に出て行った。

半分の便箋

「こんにちは。クレープの飼い主さん。この子の名はクレープという名前なのですね。なんてかわいらしい名前なんでしょう。あなたがつけた名前なのでしょうか。わたしはずっとこの子のことを『ミケ』と呼んでいました。それで彼女は何度も返事をしてくれたのでそう呼んでいました。でも,今日試しにこの子にミルクをあげたときに『クレープ』と呼んでみたら小さな声で返事をしてくれました。わたしもこれからはそう呼んでみてもいいでしょうか」

 便箋を半分に切ったその小さな手紙には,どこまでも水平で真っ直ぐな細かい字が測ったように正確に記されていた。私はその手紙を何度も何度も繰り返し読んだ。彼女 - やはり女の子だった - は私に対して決して好戦的ではないようだ。そしてクレープという名前を素直に受け入れてくれそうであった。彼女がつけた「ミケ」という名は放棄するつもりなのだろう。クレープのまだ短い歴史の中でも,私の方が彼女よりも先に関わったことを認めてくれたようだ。そんなことを思うとほんの少しホッとした。私の方が主導権を握っていると感じたのだ。そんな小さな占有権を感じている自分を少しあさましいと思った。

 手紙を11回読み返してから私は食べかけの冷や麦に再び箸をつけた。九つのロックアイスはすっかり小さくなり麺も少し堅くなっていた。それでもショウガと細かく刻んだネギ,それに黒ごまの香りに救われた。それ以上に彼女からの返事が嬉しかった。ガラスの器の冷や麦が残り三分の一になったとき,ふと彼女のことを考えた。いったい彼女は何歳なのだろう。大人なのかそれとも高校生くらいだろうか。字の感じからすると少なくとも中学生以下ではないだろう。高校生もしくは大学生というのも考えにくい。なぜならば,朝私がクレープを送り出してからそれほど時間が経たないうちにクレープは帰ってきた。そのわずかな時間であれだけキッチリした字で返事が書けるほど,高校生や大学生の女の子には余裕がないだろう。とすると彼女も私と同じ主婦なのだろうか。もしかすると私よりもずっと年上なのかもしれない。主婦というよりもお婆さんと呼ぶ方がふさわしい年齢の人かもしれない。でも,文体や字の感じからそんなに高齢ではないと思った。私はダンナほどたくさん本を読んでいるわけではない。けれども文体から書き手が男なのか女なのか,書いた人がどんな状況あるいは心境で書いたのか,そのあたりを読み取ることには比較的自信がある。学生時代,決して国語の成績は優秀とは言えなかったが,書き手がどんな境遇で小説や論文を書いたのかを推測することは得意だった。ダンナみたいに理詰めで根拠を示すことはできないが,彼よりも書き手の素性や状況を言い当てることは確かだ。そんな私が推測する限りでは,彼女は私より年下だろう。でも,私より年下の主婦だとすると,彼女はまだかなり若いだろう。なぜならば私だってクレープが来た頃は新婚だったのだから。

 いずれにせよ,クレープは二また生活をしていることがはっきりした。ねこの経験値が高い私としては,それほど意外なことではなかった。それよりも今度は私が返事を書く番となった。私は残り三分の一の冷や麦を三口ほどですべて喉に流し込み,器を流しに持っていき,再びテーブルについて信用金庫のメモをちぎりボールペンを手にした。

はじめてのプレゼント

 何事もなかったかのようにクレープは帰ってきた。もうすぐ昼になるのは確かだったが,午前中に帰ってくるとは思っていなかった。クレープは首輪をしたまま,庭からリビングに上がった。私は冷や麦をすくいかけた箸をテーブルに置き,彼女の近くに座った。クレープは撫でてもらえると勘違いしたのか,私の目の前でちょこんと座った。私は彼女の要求に応え,首輪にはすぐに手を掛けず,頭から背中に向けてゆっくり掌で六回撫でた。するとクレープは〈グルグルグ~ル〉と喉を鳴らし始めた。それと同時に,しっぽを時々左右に大きく振っていた。ねこは嬉しいとき喉を鳴らす。その音は私の耳に心地良く聞こえてきた。その一方で,犬とは反対にねこは機嫌が悪いときにしっぽを大きく振ると言われる。でも,私が関わったどのねこも,必ずしもその法則には100%当てはまらなかった。しっぽを振る=機嫌が悪い,は数学の公式のようにいつも正しいとは言えなかった。いま私の目の前にいるクレープもそうだ。少なくとも彼女は機嫌など悪くなかった。私の経験では,ねこはしっぽを振ることで,自分のバランスを取っているように見えた。ねこのバランス感覚は,高くて細い塀の上をそこが道と変わらぬように歩くことから容易に想像できる。塀どころか,ベランダの手すりの上でさえものともせずに乗ることだってある。人間とはそのあたりは異なるのだろう。もっともそのとき,クレープがバランスを取るためにしっぽを振っていたわけでないのは確かだった。

 頭から背中,次にクレープを膝の上に載せ喉から腹へと私は丁寧に撫でていった。そのたびに彼女の喉は大きな音を立てて私に自分が気持ちいいんだ,ということを教えてくれた。一通り撫で終わると,クレープは私の膝から下りソファの上に移動した。彼女はそこで毛繕いをはじめた。お腹を長くザラザラした舌で嘗め,次に左足に移った。体勢を変えて右足,さらに起き上がって前足を嘗めてから今度は顔の手入れをはじめた。そう,ねこは人間に触られたあとその匂いを消すために,気が済むまで体の手入れをする。クレープは長いこと手入れに熱心だった。私は彼女の手入れが済むまでじっとその様子を眺めていた。すべての作業が終わるとクレープはソファの少し盛り上がっているところを枕代わりにするようにして横になった。

 クレープはすぐに眠った。私は彼女の首輪にやっと手を掛けることができた。本当はクレープが帰ってきてすぐにでも首輪の中の手紙を見たかった。でも,その気持ちを抑えた。クレープの気持ちに応えたかったし,それにすぐに手紙を見ることが怖かったのだ。それはクレープがいま目の前で静かに眠っているときでも変わらなかった。私は好きな男の子にはじめて貰ったプレゼントの箱をドキドキしながら開けるようなときめきを覚えながら,首輪のプレートから手紙を取り出した。取り出すと確かにそれは返事だと分かった。私が前の日に入れた手紙と紙の感触が違ったのだ。私が入れた手紙は信用金庫のツルツルしたメモ用紙だったが,彼女?の手紙はおそらくちゃんとした便せんを使っていた。メモ用紙よりもザラザラした感触が親指と人差し指にすぐに伝わってきた。心臓の高鳴りを押さえながら便せんを開いた。そこには前と同じように,整った水平な真っ直ぐな文字が並んでいた。